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お気持ちだけ・・・

 目覚めると下腹が痛い。
何が障ったのか、足腰が痺れるように冷えてトイレに駆け込んだ。
暴発するように一気に飛び散った。
振り返って見ると、身の量は多くはない分、細かく飛び散って
内壁に張り付いていた。
水たまりの中でなにか白い物が二筋うねるように蠢いている。
「カイチュウ?」という言葉が浮かんで、
「ウソだろう!」という驚きと怖れが同時に起きて、
ほとんど反射的に排水のノブを傾けた。
水はすべてを包み込むように無かったことにしてくれた。
今のは、なんだったのだろうか?
気の迷いか、幻覚か見た物を疑う気持ちの方に引っ張られた。
ウソかマコトか分からなくなってきた。
ただ、ウソだと自分に言い聞かせれば聞かせるほど、事実だという
意識の方の分量が重くなっていって、全身に不安の霧が立ちこめた。

 今日は大学の大事なゼミナールがあるが、とれも出掛ける気にならず、
布団に潜り込んで腹の当たりをさすりながら悶々としていた。
うっすらとした眠りから覚めたら、やっぱり病院に行こうという気持ちに
なっていた。
この地域で一番大きい総合病院に向かった。
受付で事情を説明すると内科に案内された。
医師に事情を説明すると、検査入院ということになった。
翌日の午後に6人部屋に案内された。
みんな老人ばかりで、ベッドからこちらに顔を向けていた。
会釈して部屋に入ると、場違いな若者の姿に
「コイツどうしたんだろう」という好奇な目線で挨拶に応えた。

 暫くすると、担当の看護師さんがやってきた。
同じ年齢くらいの童顔の女性で、少女のような印象だった。
ショートカットの髪でうなづくたびにサラサラと前髪が揺れた。
顔に似合わない落ち着いた声で事務的に検査の手順を説明した。
マスク越しではあったが、好みの女性だなあと思った。
体温計を渡され、手を取って脈を測った。
手はヒンヤリとしていたが、こちらはカーッと胸が熱くなった。
ベッドに入ると、そっと毛布を首の辺りまで引き上げてくれた。
「寒くないですか?」と言われた。
「少し足が冷たい感じです」と甘えてみた。
すると小ぶりの毛布を持ってきて足を包んでくれる。
それはまるで赤ちゃんを大事に胸に抱くように優しかった。
これから、この可愛らしい女性の世話になるのかと幸運に思えた。

「便を調べますので、便意が来たら呼んでくださいね」と言い残して
出て行った。
胸の小さいネームプレートの名前を見過ごすことはなかった。
「斉藤 恵さん」と何度か心の中でつぶやいた。
どうせ検便のようなことだろうと、軽く考えていた。
翌日、朝の食事をしてのんびり過ごしていたが一向に便意がやってこない。
そのことを斉藤さんに言うと「はい、わかりました」と言ってから暫くして
大きな注射器を持ってきて「浣腸しますから下着を下ろしてください」と
きっぱりと言った。「えーっ!」と心の中で叫んだが、
表には出さないようにしてそっとパンツに手を掛けると、
斉藤さんはもう一方を掴んでズルッと引き下げて、
尻の肉の半片を持ち上げて太いチューブを差し込み、薬液を流し込んだ。
こんな好みの女性にこんなことされた恥ずかしさもあって、
経験したことのない虚脱感を覚えた。
それから、ものの15分もすると、お腹の中がゴロゴロと
水浸しな感じになり、圧がかかり、部屋中にまき散らす映像が
脳裏に映った。同室のオジイさんたちの不快な顔まで思い浮かんだ。
慌ててナースコールのボタンを押すと、斉藤さんは便器を持って
やってきた。
隣のオジイさんが、すかさず語気を荒立てて言った。
「おいおい、こんなところでするんじゃないようなあ」
斉藤さんは、「間に合いますか」と訊いてきたので
「なんとか頑張ります」と答えてベットから降りた。
斉藤さんはトイレの中の処置室に移動便器を持ち込んで、
「ここでどうぞ」と言ってドアーを締めた。
座るまもなく爆発して、爽快感と安堵感がやってきた。
爆発音を聞きつけたのだろうか、ドアーのノックがあって、
斉藤さんの声がした。「終わりましたか?」
「はい、大丈夫です」と答えた。
なんで「大丈夫」なんていう言葉が出たのだろうかと自問した。
身繕いしてドアーを開けると斉藤さんはサッと入ってきて、
窓際の明るいところに便器を移動して、
便器に張り渡したガーゼに付着した物を菜箸のような
長い棒で仕分けをし始めた。
斉藤さんの後ろ姿を呆然と見下ろしていた。
窓から入る柔らかい白い光の中に包まれ、
丸くしゃがんで作業している白衣の斉藤さんが
とても愛おしく見えた。
マスクはしているものの、我が「臭気」の責任を感じ、
唯々申し訳ないという思いに駆られた。
人間としてこんなに恥ずかしい場面でこんなに可愛らしい女性が
係わっているという不運を呪った。
母くらいの年齢の人だったらもっと気楽でいられたはずだ。
斉藤さんは黙々と長い箸を動かしている。
その姿を見ていて、この女性に特別な親近感が湧いてきた。
自分のすべてを見てくれて許してくれている。
自分のためにこんな嫌なことをおくびにも出さず、
カイチュウの探索に集中してくれている。
犬が糞をして、買主がビニールの袋につまみ入れる時、
犬はそばで首をうなだれて所在ない顔付きをする。
きっと僕もそんな顔をしていたのだろう。
大きくて暖かい母性愛を感じた。責任感だ、人類愛だと
いくつもの言葉が浮かんだ。

 部屋に戻り、ベッドに潜り込んで、先ほどの斉藤さんの姿を
思い出していると、モヤモヤとした感情の中で
「これは恋か」という自問になった。
初恋は中学生の頃、バレーボール部の中村さんだった。
中村さんの姿を見ただけで胸が高鳴り、中村さんの担任の
男性教師を見てもほのぼのする変な感じだった。
この胸苦しい恋する変調は、それ以来だった気がする。

 結局、カイチュウなど何も発見されず、退院となった。
医師は、激しい下痢ですべて出し切ったのかも知れないねと
柔らかい口調で言い、経過をみましょうと結んだ。
そそくさと病院を出てアパートの部屋に戻ると、
斉藤さんにお礼も言わずに出てきてしまったことを悔やみ始めた。
改めて病院に行って斉藤さんに挨拶するというのも
おかしな事のようにも思えた。
それでもこのまま時の流れに風化させるのは惜しいと思い、
苦手ではあるが手紙を送ることにした。

斉藤 恵様
斉藤さんには本当にお世話になりました。
お礼を言う間もなく、退院してきてしまったことを
とても悔やんでいます。
斉藤さんの母のような暖かいまなざしや優しいお言葉を
一つ一つ思い出して懐かしんでいます。
出来ることならもう一度お会いして
お礼を申し上げたいと思っています。
ご都合が良いようでしたら、駅前のレストランで
お食事でもご一緒したいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

と書いて病院宛に投函した。
数日してはがきが届いた。
通り一遍の時候の挨拶の後、簡単に
「お気持ちだけ頂きます」とあった。

 カイチュウが引き合わせた恋は成就することなく、
青空に浮かぶ丸いシャボン玉が音もなく
しぶきを飛び散らせて切なく消えた。


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