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老人と犬
セビリアを旅して、ふと海が見たいと思い立ち、
セントロにあるバスターミナルに行った。
切符切りの男に訊くと気怠い目でチラッとこちらを見て
「17番」とだけ言った。
バスの終点は小さな漁港だった。
どの漁船も漁網も年季が入って、朽ち果てる運命を受け入れているようだ。 暫く歩いていると港に面した古い石造りのバールがあり、
男たちがペスカードを齧りながらジンやビールで盛り上がっている。
午後の太陽がまだ対岸の教会の尖塔の遥か上にあるというのに。
朝の早い漁師たちにとっては仕事帰りの息抜きのひと時なのだ。
いつもの一口話に大笑いしながら隣の仲間の肩を抱く者、
手を突き出して怒鳴る者、際どい色事話に卑猥な笑いで目を細める者。
死んだように動かない漁港だからだろうか、
ここだけがヤケに生き生きと見える。
冷たいジンロックでも飲みたいとこのバールに入ったのだが、
東洋からきた旅人にとって中で飲むには流石に気後れがして、
店先の丸いテーブルの席に着いた。
広い海が見たいと来てみたが、ここは漁港で、
だがキラキラ光る水面を見ながら飲めるので文句はない。
何となく隣の席からの視線を感じてそちらを向くと、
でっぷりと太った白髪の男がビールグラスを掲げてこちらに来ないか
というように顎を引く仕草をした。
グラスを持って隣に移ると旅人へのお決まりのやり取りがあって、
杯が重なり暫くすると問わず語りにその老いた漁師の身の上話に
なっていった。
男の足元には痩せて毛並みの悪い犬が低く寝そべっている。
20年前に20年連れ添ったかみさんが、つまらない喧嘩が元で出て行って、
それからずっと一人だという。漁師仲間と大騒ぎすることが苦手で、
いつも一人でこのテーブルで飲んでいる。
ある時、野良犬が飲み客のおこぼれを求めてやってきた。
バールの男たちはこの惨めさに向けて小石を投げた。
老いたこの漁師は、その野良犬に食べかけのソーセージを見せて誘い、
手を伸ばして犬の口元に持って行った。
それからその犬はこの男が座っていると、どこからともなく現れて
足元に静かに蹲った。
5年ほど前のことで、今では一緒に住んでいるという。
この頃よく思うのは、自分とこの犬のどちらが先に
往くのかということだそうで、そう話しながら
寂しそうに歪んだ微笑みを浮かべて犬の頭に手を置いた。
老いた漁師と老いた犬の二つの命が穏やかに繋がり支え合って、
ゆったりとした時の流れに身を委ねていた。
優しい潮風の中、夕陽を背に男の白髪と犬が黄金に輝き、
一瞬二つの命の気高さを見せたのだった。