女の子ってなんだろう
今回の表現は不適切かもしれない。が、どうしても今の自分の考えをまとめておいて、未来の自分と今の自分の考えを比較できるようにしておきたくて書く。
今日、友達と話していた時、キャンメイクのCMの話になった。
「そういえば、キャンメイクの『女の子って楽しい』ってキャッチフレーズ無くなったよね」
「え、そうなの?」
「そうそう。私あのフレーズ好きだったんだけどな〜でもいろんな方面に配慮した結果だよね」
私はお化粧については最近まで無知だったのだがそんな私でも知っているキャンメイクのキャッチコピー。
気になって調べてみると、
『女の子って、本当に楽しい!』
から
『かわいい!に出会える』
に変更になっていたらしい。気づかなかった。
変更になった理由ももちろんわかる。
キャンメイクでお化粧をする・したいという購買層を以前よりも幅広く企業が認識するようになったからである。最近の世の中の流れ、というのもあろう。
頭では分かっている。しかし、なぜか疑問に思う自分がいる。
女の子=若い女性?
私は『女の子』という言葉が好きだ。
それは、自分が女の子だからではない。むしろ、対極にいるから好きなのである。
『女の子』というとイメージは
・かわいい・ふわふわ・キラキラ・幼い・守ってあげたい
というのがあげられる。
対して自分はと言うと
・お世辞にもかわいいとは言えない
・オーラがない
・そもそも興味をもたれない の3本だてである。
冴えない者の極みである私にとって『女の子』とは、憧れの存在であり、夢見るものであり、尚且つ遠い存在である。
例えるなら、お気に入りのセボンスターのアクセサリーを大事に大事に宝箱にしまいこんでキラキラのそれを今の私じゃ似合わないな〜とか小さすぎてつけらんないな〜と思いながらも時々取り出してはうっとりと眺める。それが『女の子』の言葉の持つ意味なのだ。私にとって。
そして、「お化粧をする」という行為は「女の子」を夢見る私にとっては、憧れのものなのだ。こんなに親和性の高いキャッチコピーはあっただろうか。憧れで憧れを固めた飴玉のようだった。
しかし、それは変更になった。そして世間はそれを良しとしている。
私が大事に大事にしてきた『女の子』の概念は、このまま「不適切な表現の代表」となるのだろうか。果たしてそれは本当の意味でみんなにとって喜ばしいことなのだろうか。
もちろん、配慮しなければいけないという意見もわかる。自分は女の子から少し外れている人間だから、そのキャッチコピーだと自分は除外されているような気分になる。
でも、その人たちも『女の子』に憧れていて、それに届かないからこそこう嘆いているんじゃないか?しかし、立ち止まって考えて欲しい。『女の子』という言葉はそこまで器量の小さい言葉だっただろうか。憧れている、それだけで使ってはいけない言葉だっただろうか。別に女の子じゃなくてもいいじゃないか。女の子に憧れているのならもうそれは女の子なんだよ。
別の視点から考えてみよう。「女の子」が不適切な表現になるのだとすれば今回の「かわいい!に出会える」は「かわいくなりたい」人だけを対象にしているのであって、「化粧をしてかっこよくなりたい」人は対象外だ。除外されている。しかし、世間は何も声をあげない。不適切な表現にはならない。なぜだろう。
私は女の子から外れている人を批判している訳では無い。なぜなら私も外れているから。
私が疑問に思っているのはアイデンティティの位置づけのみならずアイデンティティに名前をつけることを非難し忌避する世の中である。言葉を消そうとする世間である。
前述した通り、私は「女の子」という言葉が大好きだ。「女の子」は「女の子」という言葉でしか表現ができない温度や色彩がある。それに赤くバツと塗られてしまうのが悲しいのだ。
この表現を使うことで誰かを差別していることにはならないだろうか?そう逐一考えるのはとても素晴らしいことだと思う。こうして優しさは広がっていくのだと思う。しかし、忌避される言葉の数々にも温もりがあって思い出があって、かけがえのない言葉なのだということを忘れないでいたいとも思う。