ことばについて③【発語への欲求】(田崎)
私は喋ることが好きだと思う。
声を出すことや意味のある音を出してコミュニケーションをとることへの欲求があると思う。
喋ることがしんどいのは、喋りたいからなのではないかと思った。
発見していくこと・思考することは楽しい。感じたことを言葉にする喜び。得体の知れないもに輪郭ができる、姿を表す、出会う。出会いから影響を受けて更に思考する。変化していく。
音を出す。音波。私の出力で空気が振動する、その揺れた空気の中に私はいて、影響を受ける。
ことばの輪郭にも影響を受ける。②で書いた[跳ね返り]、これも楽しい。
だけど喋ることは同時にとてもむずかしい。
「オチは」
「だから何」
「意味不明」
おぉぉ...
(でもこれは、どう聴けばいいのかわからなくて困る、というリアクションの可能性もあると思う。)
見たまま聞いたままのことを言うのも楽しい。
感じることと思考することと音として発することは全然違う。
いい匂いを感じて「いい匂い」と言う。
感じたことが「いい匂い」という言葉に置き換わることが不思議で面白い。
いい匂いだと感じたということが伝わることが面白い。いい匂いだと感じて私はそれを言葉にした、ということが空間に残るのが面白い。
「そのまんまじゃん」というようなリアクションが返ってくることもままある。そのまんまだよと思う。だけどいい匂いを「いい匂い」と発語するまでにはたくさんの面白いことが起きている。
感覚をなんとか言葉にして伝えることも楽しい。理解されなくてもいい。言葉にして伝えること自体に喜びがある。
言葉にならない手前、感受したことにただ音で反応することもほんとはしたいのだと思う。感じて体から音が出ることが楽しいと思う。だけど、ギョッとされることを知っている。だから自分を制御していると思うし、それが癖付いていると思う。
ただ音を出すこと、喋りたいだけなのに制約が多くて大変だ。だから出したいエネルギーと同じくらい出させない逆のエネルギーが働いて喉のところでつっかえるのかもしれない。
言葉が溢れるときとどもるとき、どちらも極端にあると思う。でも極端なときはどちらも相手が安心できる人の場合が多い気がする。どもらせてもらえるのも助かる。
社会性をもつことばかりにエネルギーを割いてなんなくやり過ごすことが一番つらい。でもそれをやる自分もいる。
私には人が必要だ。
ひとりも好きだけど、人との関わりもないとつまんない。
ひとりだったら言葉はいらない。私は言葉を知っている。言葉での関わりを知っている。だからしたいし、したくない。
もちろん沈黙も好き。喋らずに時間を共有できるのもうれしい
(写真はこれでもかと喋る『present』宇都宮公演。杉本奈月さんが撮ってくれた)
2022.1.6
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