「運」「運」「運」
私と主人の出会いについて「運が良かった」と言うお言葉を頂いたことがある。果たしてそうなのか?この言葉に対して、真面目に考えてみようと思う。
年齢イコール彼氏居ない歴の友人(今は絶縁状態)に、私と主人の馴れ初めを総じて「運が良かった」と言われたことがある。この世で誰かと巡り合い、そしてその人と生涯歩み続けると決断すること。確かにこれは紛れもなく奇跡だ。
誰しもが一度は想う、「私を必要として、また私も必要とする人間は、この世に存在するのだろうか」漠然とした疑問。この疑問を解消するには「実践」以外何もないと私は想う。
この人だろうか?いや、そうではないかもしれない。そうではないかもしれないし、そうかもしれない。判断するには歩んでみるしかないのだ。共に。己が傷つく可能性もあるだろう。自分だけが、相手を必要としていたんだと、思い知ることもあるに違いない。だけど、私はそのリスクを背負えた人にしか、訪れないと想うのだ。本当の意味で、他人と通じ合えるようになるには、それしかないのだ。
彼女が言った。「今まで良いなと思う人もいたけれど、本当に私が全てを加味した時、その人に自分を捧げることが正しいという確信が持てない。」答えなんてないのだ。恐らく一生、私は彼女がその確信とやらを持てることはないかと思う。
人は往々にして自分が好きな生き物であり、人の為に生きられない生き物だ。誰かの為に何かをするのは、それが自分の幸せに繋がっている時だけだから。そんな偏見を覆すには、自分の身を切るしかない。痛い。でも自分自身を切って、相手に与えてみるのだ。見返りを求めて。
一縷の望みを賭けるのだ。リスクを背負って。その結果が「運命の出会い」だ。確かに私と主人との出会いは運命だ。しかし、彼女が私より先に主人と出会っていたら?彼女と結婚していたのだろうか?私は運が良かったから、先に出会えて、運が良かったから結婚できたのだろうか?
「運」なんて、なんて無責任な言葉だろう。そこに私の、主人の、身を切った痛みを感じられないではないか。誰でも恐れを抱き、最悪を考え躊躇する。そこで踏み止まって、自分を明け渡し、委ねる。その先にあるかもしれない「運」「命」を求めて。