何事も
自他共に認める「何も出来ない」人間でして。
小学生の頃から運動音痴でありゲーム音痴な少年。
「アメトーーク運動神経悪い芸人」のオーディションに行けば、普通にテニスやらサッカーのリフティングをしていたらラスト3組まで残ったことがあるほどの運動音痴。
マリオカートなんかのゲームでは今どこを走っているかもわからず逆走なんてしまう有様。
小学校男子にとってこの2つが不得手というのは非常にハンディキャップであって
生きていくのが非常に不自由になる要素だ。
この年代の男子にとっては運動とゲームが全て。大人になれば「自虐」という嗜みが生まれて出来ないこともプラスに変えれたりもする。だが小学生というのは自らを誇示して出来ない他者を貶めるという方法でしかコミュニケーションを取れない。
スマブラなんかで僕が惨敗すると慈悲のない野次に包まれて
体育の野球ではエラーをされると困るから球の飛んでこないグラウンドの外を守らされたりしていた。
中学生にあがるとみんなカラオケに行くようになった。
お小遣いを貰って近所に一軒だけあるカラオケに行くようになって、そこで自分が歌が下手だということを知る。
小学校高学年で不自然に低く声変わりした僕の声は流行りのJPOPに対応することができなかった。音程も取れない。高いキーが出せない。僕の歌っている間はみんながドリンクバーにドリンクを取りに行く時間となっていた。
大人になってからのカラオケは好き。
下手でもいいからみんなで盛り上がれればいいという要素が追加されて、曲のチョイスさえしっかりとしていればみんなの輪に入ることが出来る。
中高生の頃のカラオケといったらすぐ採点システムをいれようとするやつがいて高得点を取れない人間が数時間苦しみ続けるというインフェルノ。フリータイムにフリーを感じたことはなかった。
もちろん僕を取り巻く人間も悪かったのだろうけど、中高生特有のこういう「出来るやつがすごい」に苦しんでいたひとも少なくはないと思う。
20歳を超えて、大人になる。運動をする機会も減ってゲームもしなくなる。
(その点ではだいぶ楽になった)
そして大人の遊びといったら「飲みに行く」に変わる。
僕もその遊びを興じるようになってから気づく。
自分はお酒が弱いことに。
運動もゲームも歌も全部全部ダメで大人になったらなったでお酒すら飲めないのか。
神は何も僕に与えてくれないじゃない。
当時は大学生だった僕を取り巻く価値観は「飲める奴がすごい」になっていて
そこにも僕の居場所はなかった。
このまま社会人になるのは悔しい。何か人より出来ることが欲しい。芸人になるときそんな思いもあったのかもしれない。
なったらなったで「声が小さい」とか「明るくない」とか「面白い事が思いつかない」とか
また色々な出来ないことにぶつかるのだけど
スポーツが出来なかったり
ゲームが出来なかったり歌が下手だったりすると
「おまえ面白いな」なんて肯定してもらえた。
今までマイナスだったものがプラスに変わる。
今までには経験のない価値観だった。
そしてそれは心地が良いものだった。
やっとユートピアを見つけたのかも。
この世界にいれば「出来ない自分」にコンプレックスを抱えることなんてないんだ
よゐこさんらが関わる大きなライブの手伝いでミスをした。コント中のイスをしまい忘れたり長机を倒してしまった。
「馬鹿野郎!何も出来ないなお前は!」
偉い人の怒号が飛ぶ。
やっぱり何事も出来た方がいいよう。