私は「どこにでも住める」適応力を得たけど、他人の「地元」への感情の深さを軽視しないようにしたいと思った
留学をしてから、民族や国民や土地についてより一層考えるようになりました。
海外での生活や、海外旅行、引っ越しに慣れてくるにつれ、「どこでも割と暮らせるから、どこに住んでもいいな」と思うことも増えてきました。
しかし、外国の人たちが必ずしも私がそこに住むことを歓迎しているわけではない、ということを忘れてはいけないと思うのです。もともとそこに住んでいる人の地元への愛情や、その土地との精神的な結びつきの大きさを軽視してはいけないと思うようになりました。
以前の私は、引っ越し先でよそ者扱いをされたと感じるたびにプンスカ怒っていましたが、最近はよそ者なのだからよそ者扱いされるのは当然だなと思い始めました。
移住/旅行先には、当然ですが、もともとそこに住んでいた人がいます。無人島や物凄い過疎が進んだ村とかでなければ。
そして、その移住/旅行先にインフラが整っていて、文化があるのはそこに住んでいる人たちが、お金や時間や労力、人生、愛情をかけたからです。
移住/旅行したら、そのお金や時間や労力、人生、愛情をかけずにそのインフラや施設や文化を享受できるのですから、ひょっこり移住/旅してきた私のような人を嫌に思う地元の人もいることは当然だと思います。
そのような状態で私が心がけるべきことは、やはり定番ですが、移住先や旅行先の歴史や文化、またその地元の人たちの人生へ敬意を持つことだと思います。
そうは言っても、理解できない文化をリスペクトするのはなかなか難しいです。
理解できないことを理解できないままでリスペクトする練習をしなければならないのかもしれないなと最近は思います。今は心から敬意を持ててはないなと感じるのです。
なんだかんだ留学をして得た一番の収穫は、私はリスペクトしたくても心のどこかに引っかかって、ヴッっとなり、心の底からリスペクトできないことがある、ということかもしれません。
「郷に入っては郷に従え」がこんなにも難しいとは思っていませんでした。
自分のアイデンティティを保ちつつ郷に従える、柔軟な人間になりたいです。