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仙台市民だったころ、定禅寺ストリートジャズフェスに毎年出ていた思ひ出

毎年9月前半の週末、仙台の定禅寺ストリートジャズフェスティバル(以下JSFと略)である。
市内中心部随所の屋外に設えたステージ(その数80〜90)で演奏が繰り広げられ、善男善女がそぞろ歩きかつ飲み食いしながら歌舞音曲を楽しめるというお祭りだ。1991年以来30回を越える開催を重ね、現在全国各地で流行る街頭音楽イベントのはしりかつ成功例とされている。
コ口ナ禍で中止の年もあったが、その後規模を縮小しながらも再開し、今年も開催された。大いにめでたい。

仙台から離れた今となっては、当日数十万の人出が湧きあがる祭に外から出向く気にもならず、もっぱら縁が途切れてはいるが、市内の真ん中辺に住んでいてご近所感覚で参加できた頃はほぼ毎年出演していた。

ドラマー時代

いちばん最初の出演はドラマーとしてであった。1999年の第9回だ。
仙台に移ってきてこのフェスのことを知り、前年に観客として楽しんだわたしはそんなら俺もと思い、大学軽音のOBに声をかけてフェス用にバンドを結成した。ギタリストは山形、キーボーディストは盛岡、ベーシストが宇都宮、ヴォーカルは東京、そして仙台のわたしという遠距離タコ足バンドであった。仙台のスタジオで練習した際は、夜は秋保のキャンプ場で温泉にバーベキューというレジャー色の濃い活動もあった。

フェス当日、われわれに割り当てられたのは定禅寺通りのステージのひとつだった。大して人は集まらなかったが、あの辺りのエリアはJSFのもっともJSFたるステージであり、出演者誰もが出たがる場所と言える。であるので今思えばたいへんにありがたいことであり、もっと大事に考えてそのありがたみを噛みしめつつ演奏するべきであった。
演奏したのは80年代のフュージョンやAORだった。シティポップ再評価とやらの今でならばそれなりに人気を博したかもしれないが、当時はそんなにウケなくて客も大して集められなかったのだった。20年早かったのかもしれない。

このバンドはどういうことか地元TV局のフェス特番に取材され、準備から本番までがドラマ風に編集されて放映された。
同じバンドで翌年の第10回も出演した。ステージは同じく定禅寺通のいい場所だった。これまた今度は当日地元ラジオ局のフェス特番で演奏が放送され、メンバー一同頭を抱えたのだった。

いったん休んで今後の音楽生活を考える

その後メンバー各位の仕事が忙しくなったりしてこのバンドは立ち消えとなり、ライブもこれっきりとなった。
しかしこのとき初対面だったヴォーカリストとキーボーディストがこのバンドが縁となって付き合い始め、やがて結婚に至ったので、このバンドは世のため人のためになったとも言っていいだろう(結婚式ではわたしが司会をした)。

バンドが散開して、学生時代からのツテも絶えてしまったし、まだ知り合いも少ない仙台でバンドを組むのはまた大変だし、わたしの音楽人生もここで潰えてしまうのかなと考えはじめているうちに一年が過ぎ、またフェスが巡ってきた。
今回は観客として足を運んだ。そこで演奏する人たちと音を楽しむ観客を見るにつけ、やはり音楽はいい、なんとか音楽のある生活を続けていきたい、と改めて決意したのだった。
しかしそこで直面したのは、ドラマーひとりではなんにもできない、バンドがなくてははじまらないという事実だった。
そこで人生の後半に他人を介在せずとも音楽をやっていくためには、一人で成立する形態が必要であると感じ、模索を始めたのであった。

ボサノヴァ弾き語りに転向

ちょうどその頃、わたしはブラジル音楽に出会い、その詩情とグルーヴ感を併せ持つ世界に魅せられた。人はブラジル音楽といえば羽飾りを付けたほぼ裸のすごいねえちゃんとか、松平健とかのキャホホな感じを想起しがちだが、わたしがとくに魅了されたのはボサノヴァの繊細で静謐な音世界であった。今では小洒落たカフェのありがちなBGMとして消費されるきらいもあるが、複雑なテンションコードのそれまで聴いたこともないような進行に美しいメロディが乗る楽曲は新鮮かつ衝撃的だった。

そこでわたしはボサノヴァ弾き語りを志したのだった。昔からドラマーとしてライヴで演奏しながら、フロントのギタリストやヴォーカリストがモテることはあっても後ろにいるドラマーがモテることは稀であることに不満を感じていたが、両方やる弾き語りであれば2倍量のモテが発生するのではないかという淡くかつ不純な期待もあった。

以前から安いガットギターは持っていたので、まず基本的なコード進行から稽古を始めた。
当時すでにネット上にはボサノヴァ初学者のためのサイトがいくつかあって、中でもプロミュージシャンの山本のりこさん、アマチュアの中村コーセーさんのサイトはわかりやすくためになった(両方とも現存せず)。それらで徐々に独学し、弾きながらポルトガル語で歌う稽古を積んでいったのだった。

折しもその頃、ヤマハからサイレントギターというのが出た。ギターの共鳴部を無くした構造で、文字通りサイレントなギターだ。渡辺香津美が広告で弾いていた。当時出張旅の多い仕事でホテルに泊まることが多い生活だったが、これなら持ち歩いて毎日練習できる。日々の稽古に拍車がかかった。

これならなんとか人前で演れるんじゃないかという感じになった頃、その年のジャズフェスの出演者募集が始まった。その頃知り合ったジャズギタリストの若者を籠絡してデュオで出ようと画策し、部屋で録ったデモテープで応募したところ選考を通った。わたしの新たな音楽生活の幕開けである。

ボサノヴァユニットでの出演

われわれの初めてのステージは東一番丁通、いまのスマイルホテルがある辺りだった。あの界隈のホコ天エリアでも最も人通りの多い場所だ。
今までドラマーは後ろで座ってればよかったのでライヴで緊張することは稀だったが、同じ座ってるのでもフロントでギター弾いて歌も歌うのはめちゃめちゃ緊張するということを知った。
演奏はなんとか形になり、相棒のジャズギタリストが若くて上手くてイケメンだということも5割増ぐらいの相乗効果があり、わたし的に現在に至るまでの最高動員数ではないかというぐらいの観客が付いた。

このステージの好評が踏み台となり、このデュオはその後いくつかのバーやカフェで演奏させてもらった。しかし相棒のギタリストはやがて、若くて上手くてイケメンなのにこんなおっさんと組んでいても芽が出ないと考えたのか、自らの活動を発展させていくとともにやがてわたしとは疎遠となり、わたしはとりあえず弾き語りソロで活動していくこととなった。

翌年のフェスはひとりでの応募だったが通った。ステージは141の1階ロビー。ストリートじゃないけどたいへんに目立つ場所であり、これまた前年以上の観客に取り巻かれて演奏した。あの場所は最上階まで吹き抜けになっており、上階から見下ろして聴く観客も数多いた。たいへんに気持ちよく演奏した年であった。

初めの頃はよかったけれど

その翌年以降も一人で出演を重ねた。
住んでいたマンションでアンプを使った練習はできなかったので、フェスも近づく毎年8月半ばを過ぎると近くの区民センターの音楽練習室を借りて籠って練習した。昼になると館内のイタリアンレストランでもそもそ食事してふたたび練習したものだ。その受験生のような日々はフェス自体よりも夏の風物詩のように懐かしく思い出される。
公共施設なので格安の料金だったが、コンセントの電気使用、エアコン、その他部屋貸以外のインフラが全て10円単位で有料オプションだったのが記憶に残っている。温泉の湯治棟のようだった。

その後の年毎のステージは、サンモールや青葉通りなど比較的人通りが少なかったり、広瀬通でクルマや信号機の音がうるさかったりする場所が続き、はじめの2回ほどの達成感を欠いた。
次第に惰性になっていくのを感じつつも通算6回目の参加となった2007年、近くのステージで爆音ロックバンドが演奏する中でちまちま弾き語ることとなり、ばからしくなって定禅寺はもうこれでいいやと思った。

その翌年に生活の軸足を蔵王の山小屋に移すことになり、仙台のマンションも引き払った。
好きなときに好きなだけ音を出して練習できる環境にはなったが、もはや近所のお祭りではなくなった定禅寺ジャズフェスは応募参加することも観に行くこともそれきりとなったのであった。
その後はもう片方の足を置くことになった山形の地でボサノヴァ活動を続けることとなる。その後は定禅寺に代わって年2回の新潟ジャズストリートに出演していくこととなるが、それはまた別の話。

ちなみに当初期待された2倍量のモテはついぞ発生することはなかった。

欧州ジャズファン随喜のフェスだったこと

当時の定禅寺JFで特筆すべき点は他にあって、例年ヨーロッパのジャズアーティストを呼んでの無料ライヴがあったことだ。
当時協賛団体の一つであったアテネフランセが関わっていたと思われる。わざわざ定禅寺JFのために呼ぶわけではなく、そのとき来日ツアー中の欧州ジャズのアーティストに仙台に寄ってもらうというものだった。
フランスのリシャール・ガリアーノ(アコーディオン)、シルヴァン・リュック(ギター)ミシェル・ポルタル(クラリネット)、北欧のヤン・ラングレン(ピアノ)、カーステン・ダール(同)などが毎年入れ替わり立ち替わり仙台を訪れて街頭で演奏するという、いま思えばすこぶる異常な事態だった。
市民広場で小雨に濡れながら聴いたガリアーノ、一番丁のステージで間近で聴いてCDにサインももらったリュック、市美術館のステージでかぶりつきで聴いたラングレンなど、自宅から自転車でふらりと欧州ジャズを聴きに行けたのは夢のように思える。
わたしのようなオタッキーな欧州ジャズファンからすると極楽浄土のような企画だったが、主流のジャズファンには馴染みの薄い顔ぶれであり、大半の観客も、おそらく実行委も、それがどれだけすごいことだったかわかってなかったと思われる。ウェブサイトにも記録が残されていない。

シルヴァン・リュック(右)。惜しくも2024年没

その後、いまに至るまで

その後フェスは人気とともに規模が大きくなっていき、2010年からは駅東口の榴岡公園にまでステージエリアが拡大した。しかしあそこまで広がるともう同日の別イベントと考えてもいいぐらいだ。のべ96ステージ、出場組数800弱まで拡大した。

その後の2年はコ口ナ禍で中止になった。それ以後、ステージ数、出場組数ともに約10分の1に縮小した上で再開された。今年はさら規模を拡大して600組、34ステージであるのでそこそこの規模である。
まあそのぐらいのステージ数が、訪れる観客にとってもちょうどいいものと思う。

ところで、出演者には以前無料で配られていた例年のフェス特製Tシャツ、近年は参加料に含まれなくなって希望者はお金払って買うようになったと聞いた。それもなんだかなあ。


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