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短編小説『渋谷浪漫』(1話限定公開)

「渋谷駅の周辺って、ちょうど谷底なんだって」

センター街で泥酔していた破天荒な男・大和と出会ったことにより、
若き書道家・文彦の運命が変わり始める。
故郷を捨てた男と故郷を求める男が、谷底の街で見つけた答えとは。

・総文字数約1300字。1話は2分程度で読めます。
・全11話です。2話以降はページ最下部からご覧ください。


 深夜のセンター街で、何かにつまずいた。慌てて片足を踏み出すと、その勢いで下駄が脱げた。同時に「イテッ」という声がして、何か四角いものが遠くへ滑っていく。どうやら蹴飛ばしてしまったらしい。

 ひとまず脱げた下駄を履き直そうと思い振り向くと、若い男が路上に汚らしく突っ伏していた。だらしなく伸びた彼の腕に足を引っかけてしまったようだ。何かムニャムニャ言っている男を尻目に、蹴飛ばした何かを回収しに行く。数メートル先に転がっている四角い物体は、彼のものと思われるスマートフォンだった。奇跡的に画面が割れていないことを確かめて男の元に戻ると、彼はようやく目を覚まして地べたに座り込んでいた。

「あー……。何?」

 ぼさぼさの黒髪から覗く瞳が、獣のようにぎらりと輝いた。しかし泥酔していたのか、まだ目の焦点が定まっていない。俺はしゃがみ込んで男と目線を合わせ、その鋭い眼光を受け止めた。

「すまない、考え事をしながら歩いていて、君がいることに気付かなかった。スマホも蹴飛ばしてしまった」

 そう言って男の手元にスマートフォンを置こうとすると、彼の手から流血しているのが目に入った。おそらく下駄の当たり所が悪かったのだろう。

「申し訳ない、怪我までさせてしまった」

 慌てて謝罪を重ねると、男は今初めて流血に気が付いたように「え? あ、ほんとだ」と傷をしげしげ眺め、気の抜けた笑顔で俺に向き直った。

「すげーね。おニイさん何履いてんの? スパイク?」
「いや、下駄だけど……」
「あ、ほんとだ。キモノ着てるもんなあ」

 獣のような雰囲気はもうどこにもない。へらへら笑うばかりで怪我にはまるで無頓着な彼に呆れつつ、俺は鞄から絆創膏を取り出して渡した。

「これ、良かったら使ってくれ」

 男は不思議そうな顔で、礼も言わずに俺をじっと見つめた。不審に思ったが、これ以上絡まれても困るので「それじゃ」と言って足早にそこを離れた。男は最後までぽかんとした表情で、センター街の汚い地べたに座り込んだまま俺を見ていた。

 天下の渋谷と言えども、深夜はほとんど人影が見えない。昼間の喧騒を知っていると、同じ街であることが信じられないほどだった。たまに家出したらしい少女が屯っていたり、今の男のような酔っ払いが道に転がっていたりするが、それもこの街の風景の一部だ。関わるはずのないものに関わってしまったのは運が悪かったからだろう。仕事の打ち合わせがこんなに長引かなければ平和な帰路につけたのに、と少しだけ眉間に皺を寄せた。

 駅方面に歩いていくと人が増えてくる。路地の隅で電話している学生、残業上がりのサラリーマン、大声で騒ぐ若者たち、ナンパを無視して歩く女性。袖振り合うも多生の縁とは言うが、たぶんもう二度と会うことはないのだろう。ここに越してきてまだ日は浅いが、たった一瞬の邂逅を受け入れ続けるこの街は見ていて飽きることがない。それでいて、不思議とどこか居たたまれない感覚に陥ってしまう。目を凝らせば、若者たちの衝動がそこかしこでぎらぎら光る。この街に充満した雑多な情念から逃げるように、下駄を鳴らして家路を急いだ。


2話〜11話→ステキブンゲイ所蔵

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