短編小説『ある忠犬の四季』
・総文字数約3500文字。5分程度で読めます。
・主人を待ち続けていた犬の話です。
春
名を呼ばれた気がしました。あの人が帰ってきたのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。私はあの人の声を聞いたことがないばかりか、姿さえ見たことがないのです。それなのにどうしてか、あの人を形作るすべてを私は仔細に知っているのでした。
花の香りが漂ってきます。いつの間にかこの街に吹く風はすっかり暖かくなり、ほのかな熱をもって春の訪れを告げていました。街を行き交う人々にも独りで座っている私にも、平等に春が降ってきます。一声ワンと鳴いてみようかしらと思いましたが、虚しさが増すだけのように思われたのでやめました。
ふと、人間の子供たちが走ってきてわらわらと私を取り囲みました。いぬだ、ワンちゃんだ、という声が四方八方から聞こえてきます。中には手を伸ばして私の頭を撫でようとする子もいました。あどけない手は春の陽光よりもずっと温かく、小さき人の命の熱さが伝わってきました。
そうしてぺたぺた触られるがままになっていますと、一人の大人しそうな少女が遠慮がちにこちらを見ているではありませんか。何かを手に持っているらしい彼女は、隣にいる大人にそっと尋ねました。
「せんせい、これワンちゃんにあげていい?」
センセイとやらがにこりと承諾の意を示すと、少女は嬉しそうに私に駆け寄り、「これあげるね」と言ってぱっと両手を開きました。小さな手からいくつもいくつも桜の花が降ってきます。一生懸命集めたのでしょう。ところが花は私の前に降り積もったそばから、突風に煽られて青空へ舞い上がりました。少女が、ああ! と叫びました。薄紅色の吹雪が目の前で踊ります。それは、遙か昔にも見た景色だったような気がしました。
少女が悲しそうに空を見上げています。何度目かわからぬ春を、私はまたこの街で迎えました。
夏
建物に囲まれた空に巨大な入道雲が見え隠れするようになった頃、強烈な日射しがじりじりと私を焼くように照らしていました。
街を行き交う人々はなおも活動的で、皆この太陽の季節を愛している様子がその賑やかな空気から伝わってきます。私には四季がさほど影響しません。そのため、季節によって装いや纏う空気を変える人々の様子を見ることで、時の経過を感じるのでした。
今日もぼうっと街を眺めていますと、突如耳元でけたたましい音が鳴り響きました。蝉です。一匹の蝉が私の耳の後ろに止まり、生きた証を残すように大声で懸命に鳴いていました。
どうしたものかと思っていますと、前方から帽子を被った少年がゆっくり近付いてくるではありませんか。あまりに真剣な目で見てくるので何事かと思いましたが、彼は私ではなく、私に止まって大声で鳴いている蝉を熱の籠もった目で一心に見つめているのでした。大方、生きた蝉を自分で捕まえて遊ぶか、友達に見せびらかしたいと思ったのでしょう。
ならばこの少年と蝉の静かな戦いに水は差すまいと、私は普段以上に足を揃え、息を殺し、毛の一本も動かさぬようにして、彼の手がこの大騒ぎしている蝉を捕らえるのを待ちました。
「あっ」
しかしどうでしょう、蝉は命の危機を感じたのか、鳴くのをやめて俊敏な速さで大空に飛んでいってしまいました。少年の手は虚空を掴み、その勢いで私の体に触れました。
「うわ、熱っ! びっくりした……」
彼は蝉を逃したことを残念がると同時に、私の体の熱さに驚いたようでした。火傷をしていないといいのですが。
もし叶うのなら、蝉の一匹くらい捕ってきて彼に渡してやりたかったのです。少年の寂しそうな背中は、賑やかな夏の喧騒の中に静かに消えていきました。
秋
今夜はお祭りです。年に一度、この街が人の波に呑まれて混沌と化すのです。夜闇の妖しい空気が漂う中、群衆がまるで一つの生き物のように交差点を蠢く様子は圧巻でした。
人々はめいめい着飾り、街を闊歩するだけでも楽しいといったようでした。私の周りにもいつの間にか鮮やかな装いの人だかりができています。そのうちの一人、若い女性が、大層ご機嫌な様子で一本の焼き鳥を私の足元に置きました。
「これ食べるう? さっき屋台で買ったんだけどね、キミにあげちゃう」
女性はふらつきながら大声で笑い、仲間たちの元へ戻っていきました。ひどく酔っているようで、お酒の匂いがプンプンしました。焼き鳥はまだ湯気を放って誰かに食されるのを待っていましたが、あいにく私は食欲がありませんでした。
いつだったか聞いたことがあります。この秋の夜のお祭りは、死者の魂が帰ってくることに由来していると。ならばこの大群衆に紛れてあの人が私の前に現れてくれてもいいかもしれないと思いましたが、やはりそんなわけはありません。あの人はもうずいぶん前に空の上へ行ってしまっただけでなく、そのあとを本物の私が追いかけていったのです。きっと今頃は、天の国で一人と一匹、仲良く暮らしていることでしょう。私はあちらへ行けませんので、永久に彼らと会うことはできません。
深くなった夜はしだいに白み、一人、また一人と街から人が消えていきました。この街の夜明けはいつだって静かです。海の底に沈んだような早朝の静寂がひんやりと私を包みます。寒くなんてないはずなのに、どうしてか芯から冷えていくような気がしてなりませんでした。
しばらくそうして寒さに耐えていますと、お祭りの装いとは違う人々がどこからともなく集まり始めました。何やら路傍に落ちているゴミを拾い集めているようです。彼らをつい目で追っていると、一人の青年が優しい目をして私に近付いてきました。
「昨夜は騒がしかったろう。あれ? 焼き鳥なんて置いてある」
彼はそう言って、私の足元に置かれたまますっかり冷えてしまった焼き鳥をひょいと拾い上げました。
「誰かが置いたのか? ごめんな、すぐ綺麗にしてやるから」
湿った掃除布で私の周囲を拭き上げた彼は、最後に私の頭をそっと撫でてどこかへ行ってしまいました。
ふいに駅舎の向こうの東の空が白く輝き始めました。朝日が顔を出したのでしょう。駅や建物で遮られていても、その日の太陽の熱を私は確かに感じました。いつの間にか寒さは消えていました。
死者の魂を呼んだ街が、一晩で元に戻っていきます。気が付けば、秋はすっかり深まっていました。
冬
吐息も凍てつくような冬のとある日、私の周りにはいつもと同じように多くの人がいました。皆誰かを待っています。木枯らしにじっと耐え続け、いよいよ待ち人が現れると大層嬉しそうな顔をしてどこかへ歩いていきます。そんな調子で、大変賑わっていたこの駅前の広場も、夜が更けるにつれて一人、また一人と人影が消えていくのでした。
日付が変わった頃、何か白くて冷たいものが私の頭に当たりました。雪です。暗い濃紺で塗り潰された夜空から、ちらちらと桜が舞うように初雪が降ってきました。まだ駅前に残っている人々が驚いた声を上げています。
水分を含んだ雪は私の足元に、体に、頭の上に、少しずつ積もっていきました。このまま埋もれてしまえば、遠い昔の幸せな夢を見られるような気がしました。そんなことを考えていると、本当に眠くなってきます。わずかな街灯の光と雪の重さを感じながら、私は意識を手放しました。
どのくらい眠ったのでしょうか。まだ夢現の境をふわふわ漂っていますと、どこからか優しい声がしました。
「ハチ」
その声は確かに私を呼びました。あの人が帰ってきたのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。それなら誰が呼んだのでしょうか。
意識を戻すと、初老の男性が視界に飛び込んできました。彼はせっせと私の上に降り積もった雪を落としていました。いつの間にこんなに積もったのでしょうか。
「ハチ、ずいぶん積もったなあ。寒かったろう。今どかしてやっからな」
男性はそう言って私の体を撫でました。手袋越しに熱が伝わってきます。すっかり冷え切っていた私の体に、彼の熱がそっと移りました。
見れば、とっくに朝は始まっています。真っ白に塗り替えられた街を、今日も大勢の人が歩いていきます。交差点は人で埋め尽くされ、駅には数え切れないほどの足音が響いて冬の朝を彩っていました。
「じゃあな、行ってきます」
雪かきを終えた男性は、そう笑って駅舎の中へ消えていきました。まだ私の体の中に、清らかな熱が残っていました。
なんだか無性に、空に向かって鳴きたい気持ちでいっぱいになりました。春の桜も、夏の蝉も、秋の焼き鳥と掃除布も、私の上から除かれる雪も、すべて私の中に降り積もっていたことを、その日私は初めて知りました。
あの人の声を、私はもう待ちません。あの人はもういません。でも、それでいいのです。私はいつまでもここにいます。この渋谷の街に人がいる限り。
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