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「終わり」の愛しさ

「この世で一番大切な人より先に死にたいですか? 後に死にたいですか?」

言い回しや細かい表現の仕方は違えど、こういう意味の質問を何人かに投げかけたことがある。
たいてい、というか今まで聞いた人は全員前者だった。
愛する人の死になんて耐えられないから、先に死にたいと。
わたしはと言えば、絶対に後者である。

​始まったものは、必ず終わる

小説を書いていると、嫌でも自分の趣味嗜好と向き合う。
小説だけではなく、創作をしている人ならみんなそうなんじゃないかな。
自分の作った作品を集めてみると、おもしろいくらいに自分の趣味嗜好に偏っているなあと思うし、それがいわゆるその人の「作風」なのかもしれない。(谷崎潤一郎とかわかりやすいよね!)

そうやって、自分の心の反応するものを集めていると、今まで思わなかった共通点が見えてきたりするもので。
わたしは、もしや自分は「終わるもの」が好きなのではと思った。

始まったものごとには、必ず終わりがある。
わたしはいつか絶対に死ぬし、わたしの大切な人もいつか必ず死ぬ。
死がある以上、人間関係にも終わりがあるし、そういう意味では愛や憎悪もいつか終わるものなのだろう。
この国もいつかは終わる。どんな終わり方かはわからないけれど。
国だけじゃない、この星もいつか終わる。
うまく想像できないけど、宇宙だって始まってしまった以上、いつかは終わるのだろう。

「終わる瞬間」の愛しさ

いつか終わるからどうでもいいとか、意味がないとか、逆に意味を見出して生きていこうとか、そういうのは各人の好きにすればいい。
どうでもいいと思うのも、意味を見出すのも、個人の自由だ。
わたしは、ものごとの「終わり」自体が好きなのだ。
もっと言えば、終わったあとの心許ないような、あの少し寂しくて愛しいような感覚が好き。

何かが終わる瞬間に妙な愛しさを覚えてしまう。
好きな曲の最後の一音、好きな映画の最後のカット、好きな小説の最後の一文。
たぶん、好きな人の命が終わる瞬間も、とてつもなく悲しいのだろうけど、とてつもなく愛しく思いそうな気がする。
実際、大切な祖父やペットが亡くなったときは大泣きしたし、それこそ死ぬほど悲しかったけど、「この人の終わりを見届けることができた」という妙な幸福感もあったのだ。

この世で一番最後に死にたい

表現することが好き。芸術が好き。
今まで音楽には手を出してきたし、小説には現在進行形で関わっている。
でも絵には手を出してこなかったのは、もしかしたらそういうことだったのかなあと思った。
絵には始まりも終わりもなく、ただ一枚、そこに存在している(と思っている)から。
別におもしろいストーリーが好きというわけではないけど、始まりと終わりがあるものが好きなのかもしれない。

もし叶うなら、この国の終わりやこの星の終わり、この世の終わりも見てみたい。
たぶん見られないけど。
どんな終わり方をして、そのあとどんな空気を醸し出すのか。
それを見た自分はいったいどんな感覚に陥るのか。
だからわたしは、なるべくいちばん最後に死にたい。みんなに置いていってほしい。

坂口安吾の見た日本の終わり

わたしの敬愛する坂口安吾先生は、第二次世界大戦で東京が空襲にあったとき、友人の疎開の勧めをすべて断り、あえて東京に残って街が焼けていく様を見ていたのだという。
彼はそのときの様子を、「偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。」と記している。
多くの人が亡くなったあの爆撃を愛情だなんて、とんでもない不謹慎だけど、本当はそんなこと、どうでもいい。
彼は日本が焼け落ちていく様を自分の目で見たから、こんな文章が書けるのだろう。
それと、とんでもない感性を持っていたから。

あの戦争で、日本は一度「終わった」のだろう。
安吾はそれを自分の目で見たのだ。

よく、「何かの終わりは何かの始まりでもある」という。
正しいと思う。
恋人との別れは一人で楽しむ期間の始まりだし、次の恋人に会うための始まりでもある。
輪廻転生があるのなら、命の終わりは巡りの始まりでもある。
大日本帝国の終わりは、日本国の始まりでもあった。

何も始まることのない終わりまで

最後に、わたしの好きなRADWIMPSというバンドの「ラストバージン」という曲に、こういう一節がある。

「『生まれてはじめて』と『最初で最後』の『一世一代』の約束を あぁここでしよう 今この場でしよう 何も始まることのない 終わりまで」

もう何の始まりもいらない、大切な存在が終わる最後の瞬間まで全部愛し抜きたいという気持ちを感じて、いつも涙する。
何かが終わる瞬間というのは、やっぱり愛しいし、美しいものだなと思う。

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