長編小説『ハライソの青い春』(1話限定公開)
神様なんて信じない。祈りにだって意味はない。
そう信じる少女・渚の住む町に、一人の神学生がやってきた。
彼とともに過ごすうちに、渚はある夢をよく見るようになる。
夢の中で出会ったのは、400年も前に島原で死んだはずの少年だった。
信じるとは何か。祈るとはどういうことか。そして淡い恋心のゆくえは。
まっすぐに生きる彼らの、まだ青い春の物語。
「隣人を自分のように愛しなさい。マタイによる福音書、二十二章の三十八節です」
凜とした声が聖堂の中に響き渡る。本町渚は、その声の主である青年をじっと見つめていた。聖書を持って祭壇に立つ彼は、慈愛に満ちたような穏やかな表情で会衆をゆっくり見渡し、説教を再開する。
「かのマザー・テレサは言いました。『神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたは初めて、愛を周りに放つことができます』と」
祭壇のステンドグラスから朝の光がそっと射し込み、赤や青、黄色をまとって青年の上に降り注ぐ。彼の黒い修道服は、光に当たるたびにきらきらと輝いて見えた。
「ね、渚、あの人だよ」
隣に座っている美香がうれしそうに耳打ちする。うん、と渚がうなずくと同時に周りの人々が起立したので、二人も慌てて立ち上がった。
柔らかいオルガンの音が鳴り始め、信徒たちが息をそろえて優しい歌声を乗せていく。有名な讃美歌であれば歌えるかもしれないと思っていたが、あいにく流れているのは知らないメロディだ。手持ち無沙汰になった渚は、借り物の聖書に目を落として歌が終わるのを待った。
やがて、荘厳なメロディは「アーメン」という言葉で締めくくられ、オルガンの音も止んだ。ふと隣の美香を見ると、彼女もどうやら歌えなかったようで、二人は苦笑して目を見合わせた。
「祈りましょう」
オルガンの余韻が消えた頃、青年はそう告げてゆっくりと目を閉じた。信徒たちも一様に祈りを捧げる静寂の中、渚は一人、再び青年を観察した。彼はまっすぐに背筋を伸ばし、頭を少し下げるようにして目を閉じている。まるで祈るために生まれてきたようなその姿は、この教会の誰よりもさまになっていた。しかし、それが渚の目に特別なものとして映ることはなかった。
実習に来ている神学生だかなんだか知らないけど、美香が騒ぐほどあたしは興味ない。確かに優しそうで真面目そうで見た目も悪くないけど、聖職者ってみんなそんな感じなんじゃないの。
周りの信徒たちに合わせ、何回か立ったり座ったり歌ったりを繰り返したあと美香を見ると、さらに隣にいる案内係の老人が式次第を指して、次はこれを言うんだよ、とていねいに教えてくれていた。だいぶ高齢のように見えるが、彼に限らず、信徒は圧倒的に高齢者が多い。あの神学生は信徒たちから人気があるらしいが、これだけ平均年齢の高い集団の中に若者が来たらそうなるだろう、と渚は一人で納得した。
そうしているうちにミサは後半にさしかかり、今度は青年の横に立っていた壮年の神父がうやうやしく口を開いた。
「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう」
その言葉が終わると同時に、渚は式次第に書かれている文章を周りに合わせて読み上げた。
「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」
読み上げながら、ばかばかしい、と渚は心の中でこっそりつぶやいた。
わたしたちの父って何だ、あたしの父さんは一人しかいない。それにあたしは罪なんか犯していない。だいたい、神頼みなんて他力本願すぎる。結局は神様とやらがすべて決めてしまうのなら、祈る意味なんてあるわけない。
やはりこういう場所と自分とは根本的に合わないのだろう、と渚は退屈そうにため息をついた。イケメンな神学生が来たらしいから一緒に見に行ってほしいとかいう美香の頼みがなければ、教会の門をくぐることなどなかったし、それも今日だけという約束だ。
ミサが終わりを迎え、渚はまた信徒に合わせて「神に感謝」など心にもない言葉を読み上げ、閉祭の歌を聴いた。神父が祭壇の横にある扉から退場し、神学生の青年も元いた席に座る。誰もいなくなった祭壇では、十字架に磔にされたキリストの像が、オルガンの優しい音色を浴びながら静かに会衆を見下ろしていた。
ミサが終わったとたん、聖堂はガヤガヤと穏やかな活気に包まれた。信徒たちはほとんどが顔見知りらしく、みんな親しげに挨拶や世間話を交わしている。
「どうだったかね、楽しかったかい」
案内係の老人が、式次第を回収しながら笑顔で渚と美香に尋ねた。「初めてのミサだったんだろう?」
「すっごく新鮮でしたあ! あの神学生のお兄さんも素敵だったし」
上機嫌の美香が愛想よく返すと、彼は一瞬きょとんとしたあと、愉快そうに声を上げて笑った。
「あっはっは、増田神学生のことかい? 彼は本当にいい青年だからねえ、立派な神父さまになるんだろうよ」
増田さんっていうんですね! とミーハー全開で喜ぶ美香のうしろで帰り支度を始めていた渚に、老人はにこやかに声をかけた。
「そちらのお嬢さんもどうだったかな?」
「あ、ああ、楽しかったです。ありがとうございました」
付き合いで来ただけですなどと本音を言うわけにもいかず、社交辞令を述べた渚だったが、彼はうれしそうによかったよかったとうなずいた。
「私は大浦というんだがね、いつもこのあたりに座っているから、よかったらまたおいで」
大浦はそう言ったあと、何か雑務があるようで足早に聖堂を出ていった。
「ありがとね渚、付き合ってくれて! 教会なんて一人じゃ行きづらくてさあ」
美香は渚に向き直り、満足そうに笑った。
「いいよ、でもこの一回きりだからね」
わかってるよーと笑いながら荷物をまとめ始めた美香は、しみじみとつぶやいた。
「なんか勧誘とかされるのかと思ってたけど、全然そんなことないんだねえ」
渚は小さく吹き出して笑った。そんな心配をしながらもやってきた美香がおかしくてたまらなかった。
「そんなことあるわけないじゃん。ほら、あの人が目当てだったんでしょ?」
渚はそう言って、祭壇の前で信徒たちと交流している神学生の青年をちらりと見た。「増田さん」「増田さん」と多くの信徒たちに名を呼ばれ、そのすべてに真摯に応えているその姿はまるでアイドルとファン、いや、神と人間のようだった。彼の人気の所以は、どうやら年齢だけではないらしい。
「そーそー。しゃべってみたかったのに、あれじゃ近づけないね。ざんねーん」
たいして残念でもなさそうに美香がぼやいた。
「ま、でも神父って結婚も恋愛も禁止らしいし、見てるだけでいーや」
「え、そういう目的だったの?」
渚はぎょっとして美香を見たが、彼女はケラケラと笑って渚の肩を小突いた。
「本気じゃないよお。でもイケメンがいたら見に行きたくなるじゃん」
渚は再び青年をちらりと見た。別に絶世の美男子というわけではないが、確かに整った中性的な顔をしている。そういえば、美香の好みはああいう系統だったっけ。
彼の周囲の状況は先ほどから少しも変わらず、ひっきりなしに信徒たちが周りを取り囲んでいる。あれでは休む暇もないだろうに、嫌な顔ひとつせず一人一人にていねいな言葉をかけているさまは、さながら聖人そのものだ。自分とは生きている世界があまりにも違うと感じた渚はそれ以上の興味をなくし、美香とともに教会を後にした。
教会を出た二人を、四月の陽がさんさんと照らす。春の陽気に誘われるまま、二人はそのまま海岸に向かうことにした。カフェもカラオケもないこの小さな港町では、学生の遊び場もサボり場も自然と海になる。おまけに町の人口も減っていく一方で、今日のようなよく晴れた日曜日であっても、数人としかすれ違わない。閉塞的な町だが、開放感を味わえる唯一の場所こそが、町を取り囲む海だった。
「あ、そうだ。渚、おとといまたホームルームサボったでしょ。オダセン怒ってたよ」
歩きながら美香はそう言って、鞄から一枚のプリントを取り出した。「進路希望調査票」という仰々しい文字を見て、渚は苦虫を噛みつぶしたような顔をして渋々とそれを受け取った。
「ありがと。でも進路なんて知らないし……まだ二年生になったばっかなのに。それよりあたし、バイト探さなきゃいけないの」
渚はクシャクシャと音を立て、プリントを乱雑にしまった。
「またクビになったって言ってたもんねー。じゃあもうこの際、シスターになるとか書いとけば?」
冗談めかして笑う美香に、先ほどよりもひどい顔をして渚がうめいた。
「絶対にムリ。教会に行くのはこれが最後」
そうなの? と言いたげな美香に、渚は今日見てきたものすべてを突き放すように付け足した。
「だって、神様なんているわけないし」
疑うことを知らないようなその言葉は、家々や緑に囲まれた静かな路地に吸い込まれていく。透き通るように晴れ渡った青空の下を歩く二人の背後に、正午を告げる教会の鐘の音が厳かに鳴り響いた。
2話〜25話(完)→ステキブンゲイ所蔵
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