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バッファーこと、ファミチキ


遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
いくつものフラグを立て、投稿を失踪しておりました。
noteの更新を期待している人は少ないかもしれませんが、活動家のフリをして今回は謝ります。すんません。

2024年は30歳になった年ということで、濃い一年を送っていくだろうと想定し、いろんなことに挑戦をしたり、例年の季節行事にも参加したりして異なって見えるはずの景色を見ようともがいていましたが、普通にいい一年でした。昨年も。2024年特に何もなかったです。それが一番幸せだと思います。みんなありがとう。

 
 さて、本ブログにチラ見せされているように、20代前半のわたしはかつて謎の特大自己肯定感の低さと闘っていましたが、20代後半になると自己肯定感に縛られることなく好き勝手して生きてきて、最近は本当に楽ちんです。20代前半の頃のように、泣いたり怒ったりすることが本当に減りました。

 まず、なぜ減ったのかというと、自己肯定感の低さに拍車をかけて行く「一人反省会」は、絶対にやらないようにしてました。あれは毒です。とはいえ実際、その意識をゼロにすることは難しく、20代後半に差し掛かっても、どうしてもメソメソすることは何回かはあった気がするが、自分の機嫌を自分で取ることや、失敗は明日から活かしていこうという考え方ができるようになり、また「忘れる」というチート技も習得しました。メソメソを「長引かせない」ように最近は工夫できていると思う。一人反省会を避けようと自分に約束した結果、これらは身につけた大きなスキルである。

 20代前半はメソメソ病に罹り、20代後半はリハビリができた。30歳になり、そろそろ一人反省会もしていいのではないかというくらい回復しているので、最近は一人反省会とは言わず「その日の振り返り」を許している。ただし、最寄駅から自宅に到着するまでの10分間程度の時間に限定している。

 その日の振り返りに必須アイテムになっているのが、最寄駅のファミマに売っているファミチキだった。味の濃い、しつこい油のあのジャンクフードを食べながら帰路につく。その日のムカつくことや、嬉しかったことの記憶に対して、あの味がバフ(またはデバフ)をかけてくるのだ。ムカつくことはファミチキの濃い味でかき消され、嬉しかったことは鮮明に思い出せるよう助けてくれる。

 無駄に油っぽく濃い味を口いっぱいに入れる。すると、家の前に着く頃には満たされた気分になっている。今日やることは今日できた、あとはセーブポイントのお風呂に入って記録をしていこうと、終わりなき無限人生ゲームを難なく送っている日々だ。

 今日、三連休の1日目の夜、わざわざこんな文章を投稿するには理由がある。本日外出から帰宅電車に乗った瞬間、久しぶりにバッドに入りそうな雰囲気があった。なんでこんな気持ちなんだろうなと考えた挙句、なんてこともない小さな小さなモヤモヤ同士が、点と点が結ばれたように「何かが分かってしまった」気がしてしまったのだ。空想世界にいる太宰治がわたしの肩をトントンと叩いてきた気がした。

 危ない。太宰はマジで危ないのだ。
うわ、久しぶりにわたしの心の太宰が何かを言い始めそうだ。

 そんな時、わたしを助けてくれたのが中原中也でもない、なんてこともないファミチキだった。最寄りのファミマでファミチキを買って、一口かじった途端、なんと太宰は「人間合格!」とくだらない断末魔を残して、消えていった。その瞬間、特別美味しいとは思わないこのファミチキをわざわざ買って食べながら、今までなんとなーく帰路に着くことが度々ある理由がわかった。今日気がづいた。だから今、記している。

あのね、よくないよオサム。事実としてあった訳じゃないことを、悪い方向に「〇〇なのではないか」とか想像したり、「あれは、こういう意味だったのだろうか」とか考えて自分を追い詰めたり。自己愛が強すぎるよ。それはズバリ言っちゃあ悪いが、被害妄想だで。

 20代前半は、言葉を言葉通り解釈する人を「お気楽そうでいいな」と見下していた時期もあった。しかし一方で、事実として実際にないことをクヨクヨ想像する方が時間の無駄だとも今は思っている。目の前にある事実と、頭の中で繰り広げられる想像力を、全て心身ともに良い方に持っていく考え方をするのが一番健康的だ。自分にとって都合の良い解釈をする、これが一番だ。占いと一緒。

 これを実行するに必要なアイテムこそが、わたしの場合、なんとファミチキだったのである。

2025年一発目の記事がこんなんで良いのか、いや良いに決まってる。
な、太宰!(太宰治と肩を組んでピース)


今日は終わりー!

 

 

 

 

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