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群衆哀歌 05

Before…

【八】

 当然だが、恐怖とは与えられる者より与える者の方が強い。人間、本当に恐怖に支配されてしまった時は叫び声すら上げられないものだ。自分は、その恐怖を知っている。
 世界はセピア色に染まり、雑踏に散るパン屑のような惨めさだけが残る。誰かが食い散らかし、捨てられた破片が踏み躙られ、砕け、風と共に消えてゆく。そんな感覚である。空虚。陰鬱。氷の大陸を裸に素手素足で進むような、悪寒なんて生温い言葉で済ませられない凍えていく心。

 こんな経験、二度と味わいたくない。

【九】

 目が覚めたのは午後十一時過ぎだった。疲れて寝ちゃってたんだな、私。もう数ヶ月経つのに、やっぱり慣れないな。辛いという程ではないが、虚しさだけが心の中で成長していく。孤独の芽が育ち始めたと自覚した時、周りに人がいるようにしてきたのに、その芽はやがて花を咲かせようとしていて枯れる気配は無い。
 開けっ放しのカーテンを閉めようと窓に目をやると、か細い雨が降っていた。干していた洗濯物はずぶ濡れである。鳥肌が立った。
 渇いた心に潤いを与える為、冷蔵庫から缶チューハイを手に取り、ほぼ一気に飲み干した。飲み足らず、もう一本を手に取った。
 もう一杯煽ってやろうと思ったが、気が変わった。部屋着にコートを羽織り、玄関に置いた煙草を内ポケットにしまい、雨の降る街へとふらふら歩きだした。

 覚束ない足で目的地を目指す。そんなに遠くはない。十分もかからない、その目的地は街外れの薄汚れた廃墟。かつては旅館か何かだったのだろう。店先と思われるシャッターの前には屋根とベンチがあって、そこに誰かが置いていった灰皿がある。朽ちた柵の奥には暗闇に続く階段。心が渇いた海に沈んだ時、私はここに来る。ここで酒と煙草を嗜んでいる時だけ、ありのままの私でいられる気がするんだ。

 パッケージに王冠の描かれた煙草とオイルライターを取り出し、十パーセント近い度数の缶チューハイを飲みながら火を灯す。二月の寒さは殆ど感じなかった。それどころか外の方が暖かくさえ感じる。少しずつ、少しずつ視界が歪んでくる。きっと今立ち上がっても、歩いて帰れないだろうなぁ。このまま凍え死んじゃったりして。それでも、もういっか。別に未練も後悔も無いよ。

 この街に住み始めてまだ三ヶ月と少し。愛着も何も無い街。たまたま縁があって流れ着いただけ。いつか眩しい未来を迎えたいと思って生きているが、目の前には古びて切れかけの点滅する街灯がいくつか。まるで、私みたい。一本目を吸い終え、酒を煽りながら二本目に火を点けて電灯を見上げ、正面に目をやった時、誰か来た。真っ黒い影、死神のお迎えかな。

【十】

 この精神安定所は、越してきて一月目に見つけた場所だ。元々旅館っぽい店だったんだろう。屋根・ベンチ・灰皿完備で、端っこに階段がある。恐らく屋上か何かに繋がるものだろう。夜になると薄気味悪くて誰も寄り付かない。不気味な場所に不気味な誰かがいたらますます近寄らないだろう、と思ってここに時折足を運ぶ。基本一人で過ごす俺にとって、誰も近寄りたがらない場所はオアシスである。ぐらつき崩れかける心を支えてくれる街灯は、以前来た時はまだちゃんと光っていたのに、久々に来てみれば壊れかけていて余計に不気味に見えた。

 そしてその不気味な街灯は、更に不気味なものを照らしたり消したりを繰り返している。俺の特等席に誰かが腰掛けている。オアシスには、先客が既にいた。奇しくも、俺が求めて手にした缶チューハイと同じものを持って。

 一人になれないなら帰るか、とも思ったが家には春がいる。もしかしたら物音で起きているかもしれない。あの会話の続きをするくらいならオアシスに相席する方がまだマシだ。酒缶を小脇に挟み、煙草を咥え、オアシスのベンチに向かいながら、オイルライターを回す。しかしオイルライターは煙草に火種を与える力すら残っていなかった。ベンチに腰掛けたが、結局燃料が切れたオイルライターは煙草に火を灯してはくれなかった。

 立て直そうとしたはずの心は、結局さらにぐらついてしまった。煙草吸って落ち着くことすら許してくれないのかよ、ケツ冷てぇし。いよいよ帰ろうとした時、聞き慣れたオイルライターの回転音と共に、目の前に炎が現れた。
 無意識にその火で煙草を灯したのは、酔いが回りだした所為だけではないだろう。オアシスに本当に求めていたものが目の前にあったからだろう。煙で肺を満たし、それを吐き出した時、グラリグラリ揺れていた心が安らかになったのは確かだった。ストローで再び酒を飲んだ時、落ち着きを取り戻した脳内は一気に冷静になった。
(何故この煙草に火が付いたのか?)
 疑問と恐怖が身体を駆け巡る。
 ゆっくりと火の元に目線を送ると、そこには先客の女が一人笑顔で佇んでいた。

Next…


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