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群衆哀歌 08

Before…

【十四】

 シジミ汁のお陰か、二日酔いは完全に解消された。これがトモダチの有難さって奴なんかな、なんて思いながら一服を終え、一時限目の講義室へと向かう。
 講義開始十分前、相変わらず青髪の席は空いている。周囲にも誰も座らない。五分前、イヤホンを外すと、先週の最後の講義と同じような話し声が聞こえてきた。目を向けると、男子五人程の中に哀勝がいた。

 先週と違ったのは、哀勝が一人でこちらに向かってくるところだった。囲いの連中は「やめとけって、何されるかわかんねぇぞ」「あいつヤバい奴なんだよ」とそこそこの声量で哀勝を止めている。けれども哀勝は
「面白そうだからいいじゃん、何かあったら君達助けてくれるでしょ。」
と言って囲いから離れ、俺の後ろに陣取った。

 一瞬だけ目が合った。顔色は優れないが、廃墟で見せた陰の部分は完全に隠している。声を交わすことも無く、講義は始まった。
 いつもより講義に集中できない。何を考えて俺の後ろに座った?この間の一件の口封じをする為か?嫌な圧を感じながら、レジュメとテキストを往復し、教授の話をレジュメにメモする事に集中した。

 残り十分を切った頃だろうか。首筋に何かが触れた。突然の出来事だったので、思わず「うわっ!」と声を上げてしまった。
「染谷、どうかしたか……?」
 教授だけでなく周囲の連中全ての目がこちらに向く。顔が真っ赤になっているのが、自分でも分かった。
「すみません、虫か何かが首に触れたみたいで、驚いてしまって……。」
「そうか、講義ももうすぐ終わるからな。集中しろよ。」
 教授も、他の生徒も引いているのがありありと分かる。首筋に手をやると、シャツに二つ折りの紙切れが挟まれていた。開くと、「哀勝 Sad_Winner」という文字と、メッセージアプリのアイコンのイラストが描かれていた。無性に腹が立った。赤っ恥をかかされた上に、こちらから連絡してこいだと。ふざけやがって…。
 講義はその時間の振り返りをスマホやタブレットで記入して提出する段階だったので適当に済まし、紙の裏に週末春と行ったバーの住所と午後九時、と走り書きで書いて握り潰した。
 講義が終わって振り向くと、何か企んでいるような意地悪な笑顔の哀勝がこちらを見ていた。イヤホンを着け、走り書きした紙切れを叩きつけ、微笑む哀勝を睨みつけてから荷物をしまい、講義室を後にした。
 去り際ちらっと振り向くと、来る時に哀勝といた連中がごそごそ何か話している。一瞬だけ、イヤホンを外した。「何でもないよ、こっちが悪戯しただけ。」という声が聞こえ、ますます苛立ってイヤホンを着け直し、音量を一つ上げた。

【十五】

 ちょっと、やり過ぎたかな。
 喫煙所で一人、一服しながら思う。二限目は空いているが三限目は入っている。この空き時間、特にする事も無い。
 喜一の後ろに座ったのは、特に理由は無かった。強いて理由をつけるなら、単独行動に取り巻きがどういう反応をするのか気になった、位だった。一時限目の九十分を思い返す。

 -こんなの、一年の時にとうに覚えたよ。
 講義なんてろくすっぽ聞かずに胸の中で呟き、週末の記憶を遡る。あの時、私は本当に世界から消えても良いと思っていた。自暴自棄になっていた。憎々しい過去に負け、自分がゴミ屑のように思えていた。コートを着て出たのは、まだ未練があったからなのかな。酒に逃げ、煙草に逃げ、この世からも逃げようとした。そこに現れたのが、前で青髪をなびかせている喜一君。彼は今、何考えてるのかな。

 残り十五分、既に振り返りは机の下で弄ったスマホで入力を終えている。あとは送信するだけ。もし連絡先教えたら、喜一君はどうするんだろう。喜んで連絡くれる感じじゃないけど、返してくれるのかな。そう思って雑紙の端を破き、連絡先を書いてそっと首筋に添えてみた。

 喜一君、びっくりさせちゃってごめんね。周りドン引きだったね。講義終わった時の目、めっちゃ怒ってたね。怖くはなかったけど、そういう事するから周りから浮くんだよ。いや、浮こうとしてるのかな。分からないけれどね。そしてポケットの中からくしゃくしゃになったさっきの雑紙を取り出した。吸い終えた煙草と一緒に灰皿に捨てようとした時、裏面に何か書いてあることに気付いた。
 今の家からそう遠くない住所と、「午後九時」という汚い字。地図アプリで調べると、薄汚れたバーが出てきた。行ったことのない場所である。
「返信、くれたんだ。」
 独り言を呟き、その紙を綺麗に折り畳んでポケットにしまい直す。最後のひと口を吸い終え、火種を消して灰皿にそっと入れた。

 喫煙所を出ると、今朝いた男の子達とは違う二人組を見かけた。その中に山本君もいる。
「山本君たち、やっほー。」
 軽く手を振って、自然と溶け込む。こうやって溶け込んでいれば安全である。良くも悪くも単独よりは目立たない。
「おい山本、抜け駆けかよ。ずりぃぞ。」
「そんな事ねぇって、別に普通に時々一緒に過ごしてるだけだって。お前も一緒にいるから分かるだろ。」
「分かってるよ、冗談冗談。これからそこの喫茶店で次の講義の予習するんだけど、アイカも来るか?」
「いいね、行こ行こ。分かんないとこ私が教えてあげるから。」
 ふと、山本君と一緒にいる男の子に聞かれた。
「アイカってホント勉強できるよな。編入前どこいたの?」
「んー、内緒。恥ずかしいから。」
 笑いながら誤魔化し、全国どこにでもある喫茶店を目指す。化けの皮に、この二人は全く気付いていないと確信できる。剥がれたところを見られたのは、あの晩に出会った喜一君だけ。足は喫茶店に向かっているが、頭の中は既に午後九時に向かう、古ぼけたバーを見据えていた。

Next…


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