【散文】五百五十二時間の夜
人生で最も忘れられない三週間。あれからもうすぐ一年が経つ。
絶望の最果て、のような場所に辿り着いてしまったと今でも思っている。真っ暗な世界で死神の譫言に苛まれ続け、その先で眩しい光を浴びてしまった。こう記すとそれがよくない瞬間だったようだが決してそんなことはない。幸せを痛感して、その先にこれ以上が無いと決めつけてしまっただけだったのだ。それくらいその光は暖かくて熱くて綺麗だった。
一つ博打をかまして、その結果に左右されず旅立とうと決めていた。自分が予想するより遥かにみっともないものだったが後悔は無かった。私以外誰も悪くない。優しさに囲まれて幸せな時間を過ごし続けてきた。
冬が門を開いて迫ってくる時期。感覚は全て置き去りにして本能のまま去ろうとした。だがしかしさよならを告げ切ることは想像以上に困難な道だった。無になるために有を捨てるには優をも一緒に捨てなければならず、その優を捨てることがどれだけ苦しいかを知った。肉体的な痛みは無く、物理的な苦しさも感じなかったが、関わりを得てきたところから優を捨て去ることだけは最後まで叶わなかった。
薄明るくなった時、私は汚れたドブ川に片腕を突っ込んで眠っていた。まだ意識は此処に在る。さらばを告げることの難解さを思い知らされて、重い脚はまた一歩あちらへ向かおうとした。
幾つもの錠剤が机上に散らばっている。もう眠りたかった。ずたぼろの手首は痛くもないし、絞まった首は既に意図せず解放されて苦しくもなんともない。さよならを告げたはずの光々とした電灯を消し、湯を沸かしてカーテンを勢いよく開けた。
朝焼けが差し込んでいた気もすれば、もうすっかり明るくなっていた朝だったような気もする。大事にとっておいた一瓶の最後を水色のどろっとした液体と混ぜて飲んだ。そこから先の記憶は二日間途切れたままだ。
独房と呼ぶべき病室に三週間居た。その時間は誰よりも醜いものであったし、何よりも長いものであったと感じている。これ以上記すのはやめておく。
長い長い夜を超えて戻るつもりの無かった自室へと戻ってきた。田園を眺めて吸った煙草はとても美味しかった。それだけで、正式に別れを告げられなくてよかったと心底思った。
戻った後も、やっぱり誰もが優しかった。後悔は無いが猛省した。未だにあの時壊れてしまった箍は直る気配は無いが、箍の代わりに楔を打ち込んでもらったので今も元気に息をしている。
息を止め、生を止めようとしたがもうそんな愚行には走るまい。頂いた優を一つずつ返していくまで死ぬ訳にはいかない。