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群衆哀歌 03

Before…

【五】

 口を漱ぎ、イヤホンを着け直して講義室へ向かった。「春」という同級生から声を掛けられ、自然と連絡先を交換してしまったことは悔やまれるような、しかし嬉しいようなむず痒い不思議な感覚を残した。

 前の講義が終わる前に講義室の前で待ち、終了と同時に出て行く学生より早く先に入室し、窓際の後ろから三番目を陣取る。それはどの講義でも同じだった。陰で「青髪の席」と呼ばれていることは知っている。いつしか俺の周りの席は空席か、空きが無い時に嫌そうな顔をした奴が座るかのどちらかとなっていた。講義開始五分前にイヤホンを外し、テキストやレジュメを用意する。このルーティーンは崩したくない。誰も近寄りたがらない、奇妙な男として学生生活を終えたい。

 機械のようにどの講義でも同じ動きをする俺の周りからは、少しずつ人が減っていき、気づけば誰もいなくなっていた。そこに土足で踏み込んで不躾な言葉を投げつけながらも筋を通した春。今晩本当に飲み行くか、断ろうか悩みながら講義開始を待っていた時、賑やかな集団が講義室に入ってきた。

 その集団の中心には女が一人いて、その女を男五、六人が取り巻いていた。その女は服装も髪型も地味で、特段目立つ要素は無い。なんとかサークルの姫、ってやつか、とまたもや偏見じみた考えが脳裏に浮かんだ。大体こういう連中は講義中もくっちゃべってて喧しい。関わりたくねぇと思ったが、その考えを嘲笑うように喜一の後ろの席を陣取った。

 そいつらは講義直前まで話していた。嫌でも耳に会話が届く。他愛もない会話だった。
「バスケサークルに気になる子いてさ、紹介してくれよ。アイカ、顔広いだろ?」
「嫌だよ、そういうのは自分から積極的に行かないと。私紹介とか苦手だし、そもそも女友達いないし。」
「嘘、意外!絶対嘘っしょ、こんだけ色んな男と繋がってんのに」
「絶対嘘だろお前!」
 正直、うるせぇ。気が散る。こんな身ナリでも、講義は真面目に聞きたいのだ。コンビニ入れば名前聞こえてくるようなうちの大学でも、きっと得るモノはあるのに。どうせ教授の話なんざ聞かねぇで今晩どこで遊ぶかとかしか考えてないんだろうな……。

 しかし、想像と異なる九十分だった。後ろからは話し声一つ聞こえず、レジュメやテキストを捲る音とペンを走らせる音しかしない。廊下側の真ん中辺りの数人がこそこそ話しているのがよく聞こえるくらいだ。「アイカ」って言ってたな、あの女。そういえば周りの野郎の中に知り合いがいた。
 ぞろぞろと講義室を去ろうとする連中の最後尾の奴を捕まえた。
「おい山本、話すの久しぶりだな。」
「な、なんだよ染谷。ご無沙汰じゃねぇか。何か用かよ?」
 山本は入学当初はぼちぼち遊ぶ仲だった。俺から拒絶され、離れていった男の一人だ。一年以上時間が空いて話し掛けたからか、えらく動揺している。
「あのアイカって女、ここ二年見てねぇけど誰だ?人の顔覚えるの得意でな、知らない奴に真後ろで騒がれると迷惑するんだよ。」
「何おっかねぇ顔してんだよ。二、三ヶ月前に編入してきた女だ。お前くらいじゃねぇの、知らない奴。いっつもイヤホン着けて外の話聞いてねぇからだよ。男連中はほぼ全員知ってるぜ。」
「そんな奴いたのか、まぁいいや、ありがとう。」
 深く礼をして、話しながら講義室を出て歩き出した。
「たかだかこんなことでそんな頭下げんなって。相変わらず律儀だな。ただあの女もお前と一緒で評判悪いんだよ。話してみるとそうでもねぇんだけどな、量産型の女どもはいっつも男取り巻いてるから妬んでんだろうな。ビッチ呼ばわりされてんだぜ。」
「俺と似てんなぁ、そこだけ。俺も陰で悪いコトばっかやってることになってるらしいじゃんか。」
「それ言い回ってたの加藤だよ、最初。いきなり雰囲気変わってシカトされたから腹いせに言い回ってたんだ。結局噂だけ広がって、広げた張本人は口ばっか達者なもんで周りから浮いちまって、結局学校辞めてどっかの工場に就職したって話だぜ。」
「あの野郎か、どっかで会ったら文句言ってやる。」
「俺はどっちかってと噂の火消ししてたんだけど、どんどんお前が変わっちまうしいつの間にか連絡取れなくなるしで、話さなくなっちまったな。何かあったのかよ?」
「相変わらず優しいなぁ山本。何もねぇよ、ただの趣味だ。時間割いて貰って悪かったな。」
 学校を出たところにある自販機で、ブラックの缶珈琲を買って渡した。
「お前、俺がこれよく飲んでるのまだ覚えてたのか。なんかこちらこそ悪いな、ご馳走様。」
「情報料だ、記憶力悪くねぇからな。ついでにもう一人、春って奴知ってる?」
「名前は聞いたことあるな、確か他所の学部の奴。キャンバスは一緒だけど。そこの学部の奴にサークルで知り合いがいて、そいつから来年度からウチの学部に移るらしいからよろしく頼まれてんだ。そいつがどうした?」
「いや、声掛けられたから。」
「うわ、そいつよっぽどの物好きだな……。」
「うるせぇ。本当に変わった奴なんだよ。今晩飲みに行く約束しちまってな。行ってみる価値はありそうだな、あざした。」
 再び礼をして、山本と別れた。山本は早足で、逃げるように俺から去っていった。俺も、一年ちょい前に同じことしたからなぁ。文句は言えない。彼は本当に優しい男だった。それを分かっていながら、話している間ずっと足が震えていた。ワイドシルエットなズボンのお陰で分からなかっただろうが、歩くので精一杯だったのだ。とりあえず、約束通り春に連絡した。

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