群衆哀歌 11
Before…
【十九】
風の無い月夜の街外れ、店先に出しっ放しになっている灰皿を見かけ、煙草を灯してさっきまでの出来事を振り返る。
喜一君、意外と怒ってなかったな。
正直、BARに行ってやろうと決めた時点で、相当怒られるのは覚悟していた。何なら、悪評通りの男なら殴られるかも、とさえ思っていた。しかし、私の勘は当たっていた。初めて会った時の、ささくれた優しさは紛れもなく本物の優しさだった。
女相手で、普段はウィッグでか弱そうな姿をしている事もあり、優しくしてくれる男は数えきれない程見てきた。荷物を持とうと気を掛けてくれたり、飲み物を奢ってくれたり、煙草買ってくれたり、飲み代男だけで割り勘にしてくれたり…。でもそこには、これもまた私の直感だが、下心が一パーセントでもあるのだ。あわよくば付き合って、その後は……。みたいな。私に気に入られようと隙あらば優しくしてくれる。でも、私が求めているのはそんなものではない。
喜一君には、棘だらけだけど、心に真っ直ぐくる何かがある。あの時紙切れを叩きつけた時は、その棘を鞭に変えて私に振り付けた。先週の夜、全てを投げ捨てかけた私には、その棘が生きなければならない現実を味わわせてくれた。今晩は、その棘は不器用な優しさに見えた。
「あいつ、いい奴だなぁ。」
思考からはみ出た独り言を漏らし、煙草を吸い込んだ時、スマホが振動した。見知らぬ相手からだけれど、だからこそ一目で分かった。アカウント情報を開く。何とも不気味で、彼らしい。
―どういたしまして、またね。
そう返信を送り、煙を吐いて灰皿に捨てる。
家に着いた時、心地良い酔い方をしている自分がいた。なんだか、生きてれば何とでもなるような、希望なんて大袈裟な言葉ではないけれど、少なくとも先週の絶望に侵された夜では無かった。窓からは月明かりが部屋を照らしていた。
真冬の空は、冷えて透き通っている。星がよく見える。月明かりは他の季節よりも明るく見える。窓を開いて網戸にして、その窓辺に灰皿を置き、椅子を持ってきて腰掛けた。
いい夜だなぁ、と缶チューハイを一本開ける。今回は度数の弱めなやつ。呼ばれるまでBARに入れなかった時、ストゼロ開けたのは失敗だったな。あれ抜いとけば、もっと美味しいお酒だっただろうなぁ。
月明かりに紫煙が燻る。何となく、幻想的。私の心はこの夜のよう。雨が降る時もあれば、こうやって透明な黒になる事もある。黒に近い灰色より、真っ黒に幾つかの星や輝く月が照らしてくれる方が好き。酒をゆっくりと喉に流し込む。ホワイトサワーが、輝く闇夜の川になる。
染谷喜一という編入先で最も浮いた男は、同じ学部のどの男よりも、男らしい男だった。雰囲気と流行に気を取られ、茶髪にピアスをして群れを成して生きている連中とは違う。孤高の狼みたい。余計な連携は取らない。不要な群れより、必要な孤独を選んで生きてるんだな。そこは私とは反対だな。私は生きる為に群れに溶け込む事を選んだんだもん。醜いアヒルの子、それとは違うのかな。確かあの話では最後に家族のアヒルが迎えに来て、ハッピーエンドだった気がする。寧ろ私は醜くてアヒルの群れから追い出され、カルガモの群れに溶け込んで一緒に行列を歩いている。これが現実。残った酒を、半ばやけになって飲み干し、最後のひと口を吸い終えて吸殻を捨てる。
私は、か細く燃える残り少ない煙草。一度、雨に晒されて火種が消えそうになった。火種が消えた短い煙草は捨てられるだけ。その短い煙草に再び火を灯したのは、奇人・染谷喜一君。これは決して恋心なんかではないけれど、何だろうね。片想い相手って感じじゃないんだよな。
また、先週の晩の記憶を辿る。彼の言葉を思い出す。酔い潰れても、記憶は飛ばないタチである。その時、必死で私を送り届ける喜一君の言葉が蘇った。自暴自棄になって色々喚いた私に対して、彼はこう言ったんだった。
「うるせぇ、あんたの身体目的じゃねぇよ。俺が汚したとこ綺麗にしてくれてる恩人放っておけるか。家どこだ、送ってってやる。その辺で野垂れ死にされた方が寝起きが悪くなんだろ。いつか続き聞かせてくれんだろ。俺もアンタと色々話してみてぇって思ったんだよ。」
「恩人」。私が喜一君にとって恩人と呼べる存在だったように、喜一君もまた、消えかけた煙草に再び火を点けてくれた恩人だったんだなぁ。
煙草は、火を当てただけでは吸えない。火に向かって先端を向け、吸い込む事で火種が発生し、吸えるようになる。あの時、私は確かに息を吸い込んだんだ。「生きよう」って思えたんだ。
頬に、温かい雫が一滴流れた。その一滴は堤防を破壊し、一気に涙が零れ落ちた。
「生きたい、まだ死にたくない。生きるよ。」
ベッドに入り、布団を被って嗚咽の混じる声で呟いた。家の中だが、この姿は誰にも見られたくなかった。何枚も被っていた化けの皮が、全て剥がれ落ちた。素の私だ。久しぶりだね、元気そうで何より。
涙で濡れた布団の中で、山浜哀勝の意識は綺麗な月夜に溶けた。
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