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渦中から君へ19

しかし何はともあれ5月は終わるのだな。

ということを今日もずいぶんと考えていた。
ぜんぜんスッキリしない。
言いようのない不安と悲しみを抱えたまま、この国は湿気に蝕まれていく。
たとえば君を保育園に行かせて本当にいいのだろうか。ぼくは子どもたちを迎え入れていいのだろうか。基本的には大丈夫だと思っているから営業再開を決めたのだけど、絶対的な確信があるわけじゃない。たぶん多くの人が同じような不安を抱えつつも、「日常」を欲している。もう非日常に疲れ果てている。

今朝はみおさんが駐車場まで見送りに出てくれたから、ママも一緒に行くものと思った君はチャイルドシートの上でひとしきり泣いた。
しかし考えてみると不思議なもので、君は毎朝、玄関でみおさんと別れるのを受け入れている。泣くこともなく、ぼくとともに車に乗り込む。同じように夕方になると、手を振るばあばが後方に消えても君は泣いたりしない。
これはこういうものなのだと受け入れてしまえば、人はそのことをいちいち悲しんだりしなくなるということなのか。

今週も月曜のみの保育園だけど、保育士さんに預けられ、促されてぼくに手を振る君の表情はやはりかたかった。ぼくは何度も今日は保育園に行こうね、明日はばあばんちに行こうね、と説明したけれど、やはり裏切られたとでも思っているのだろうな。
しかし来週から、月曜のみならず火曜日以降も保育園に預けられるという現実を突きつけられたとき、君がどう反応するのか不安だなと思った。いや、やはりこれもわりとすんなり現実を受け入れてしまうのだろうか。

まだものがわからないから仕方ない、ということなのかもしれないけれど、もっとものがわかってきてもその性質って変わらないよな。
ぼくらは時間とともに、習慣を受け入れる。
これはこういうものなのだ、と。
それが生きるためには必要なのだろうけれど、その性質は悲しいというか、考えだすと苦しい。

来年になればいよいよ東日本大震災から10年ということになる。ぼくはあの震災以降、時間の進み方が決定的に変わってしまったと感じてきた。2011年3月11日という日に針先を引っ掛けて、ずっとそれを引きずり続けている分、時間の経過が鈍くなってしまったような感覚があった。

でも、もはやそれも以前ほど確信が持てなくなってきている。

どっかでその針は外れてしまったのかもしれない。それはたとえば君が誕生したことがきっかけになっているのかもしれない。わからない。でも来年で10年と言われれば、たしかに10年が経ったような気がしてしまう。ちゃんと引きずってきてたつもりだったのに。2013年に父親、つまり君のじいじが死んだことも含めて、時間は重く引きずられていたはずだったのに。

2019年に公開された「寝ても、覚めても」という日本映画は、まさにぼくのそういう感覚をえぐってきた。いまや共演俳優同士の不倫のきっかけになった作品として有名になってしまった作品だけど、あれほど生々しく東日本大震災がなんだったのかを語ってくれた作品はない。少なくともぼくにとって、あの感覚こそがあの震災以降にぼくが引きずっていた感覚だったし、そのことを突きつけられて劇場で涙が止まらなかった。

やはり6月以降も、コロナ以前の日常は戻ってこない。何もなかったころ、たとえば今年の1月のような日々は戻ってこない。それでもぼくらに用意されているのは目の前の新しい「日常」しかないから、そこに入っていくしかない。
なんせそんなこと知ったこっちゃない君にとって、それ以外に日常なんて存在しないのだ。ぼくもそう開き直るしかない。

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