渦中から君へ21
ばあばの家に行くときには車中で音楽を流している。
ぼくは思いつきでよくプレイリストを作っていて、そんなプレイリストの中でも「best hit」というたいへんふんわりしたタイトルのやつが発見された。仕方ないので何を入れたのかもわからぬまま再生してみると、それは大学のころによく聴いていた曲を雑然と押し込んだようなプレイリストだった。
奥田民生、椎名林檎、ミスチルといった本当に大学時代に聴きまくっていたラインナップは、そのほとんどをそらで歌うことができるほどだった。その中にTriceratops の「2020」が入っていた。
おそらく2004年くらいにリリースされたその曲は「2020年の夜明けに映る君の体を流行りの服で君に変わらず歌っていられるような、そんな僕でいたいのさ」と歌っている。これを歌っているころは和田唱さんも2020年が東京オリンピックの年になり、コロナの影響で延期になることも、上野樹里さんと結婚することも想定していなかったろうし、ぼくもみおさんや君と出会うことは想定していなかった。しかしその「2020」なんて曲を懐かしみながら聴く日が本当に来てしまったのだ。
結局、このコロナ騒動でぼくは懐かしい懐かしいばかり言っている気がする。
今日もSNSでこのnoteを読んだ懐かしい友人が久々に連絡をくれた。彼は大学のときにバイト先で知り合った友人で、ぼくに映画の楽しさを教えてくれた人でもある。なんと彼にも君と同い年の息子がいるらしい。はー本当にぼくは未来を生きているんだなと実感したよね。
さらにぼくはさっき「バーニング劇場版」という映画を鑑賞したのだが、これまたどうしたって大学時代のことを想起せねばならない作品だった。
まずこの韓国映画の監督イ・チャンドンは、ぼくが大学時代にはじめて観た韓国映画「オアシス」の監督なんだが、その映画をぼくに勧めてくれたのが上に書いた友人なのだ。さらにこの作品の原作は村上春樹の「納屋を焼く」という短編なのだけど、その短編はそもそもアメリカの作家フォークナーの「納屋は燃える」という短編からタイトルを引用したものだ。ぼくは米文学専攻でフォークナーは特に好きな作家の一人だったから「納屋は燃える」が収録されている短編集も読んでいた。
イ・チャンドン、フォークナー、村上春樹という大学時代にバラバラに享受した文化が2019年になって結びついたのが「バーニング」という作品なわけである。
自分がさまざまな出会い方をした作品や作家がこんなふうに一つの作品としてでなくとも、頭の中でテーマや思想性の部分でふいにつながったと感じるとき、生きるって本当に楽しいなって感じる。
自分の嗜好が肯定されたような、普遍的な思考の流れを発見したような、本当に満たされた気持ちになる。
やはりカルチャーって大切なんだ。それを浴び続けることを、死ぬまでやめたくない。
しかしそういうカルチャーの多くも、このコロナに大きな影響を受けてしまっている。
たとえば本屋だったり、ミニシアターだったり、小劇団やクリエイター、パフォーマーといった人々が、
この先の生活に不安を抱えている。
この国はそういう文化に無理解で、支援に消極的だ。間違いなく生き残れない文化が出てくるだろう。それはコロナのせいというだけでなく、我々の選択の結果だということは記憶しておかなければならない。
階下の大家さんはずっと孫に会えずにしょんぼりしていたが、先日から二週間ほどの予定で娘さんがお孫さんを連れて帰ってきた。娘さんたちはわざわざうちまで挨拶に来てくれ、今日は大家さんのお庭にある砂場で君と一緒に遊んでくれたらしい。君はいつまで経っても帰りたがらず、みおさんが無理やり引き剥がして帰ってきたということだ。本当にいい大家さんでよかったね。