死なないで、と電話越しに泣き叫んだ夜は笑い話になった
「お義母さんにパパ、『この子、体と心だけは丈夫です。取り柄はそれだけです』って言われたっちゃけどなあ」
何回聞いたか分からない、父の言葉だ。
「嘘ついたつもりは無かったんやけどねえ」と他人事のように笑うのがその噂の母である。
それを聞くたびに、嘘やんけ、とおもう。
「肺炎やって膝の皿割ってクモ膜下出血やって脳梗塞やって自殺未遂図って家出までした人が何言っとるん。頭にチタン、膝にネジ入っとるやん」
そう返すと決まって母は言う。
「ママ、メーテルだから」
違うと思います。
岸田奈美さんの「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」を読んでまず思い出したのは、そんなやりとりだった。
わたしが幼い頃の記憶にある母はいつも青ざめた顔をして寝込んでいた。昔からひどい偏頭痛持ちで、調子が良い日を数えたほうが良さそうなくらいだった。それからわたしが歳を重ねて徐々に良くなったかと思いきや、ある日は肺炎になり、ある日は厚底サンダルで転んで膝の皿を割った。その翌年にはクモ膜下出血になって深夜に病院へ担ぎ込まれた。
そんな母がいても、一人っ子のわたしは自分の人生が大事だった。大学進学と同時に家を出て、一人暮らしをはじめた。
「実はちょっと脳梗塞になって入院してました。幸い何もなかったからもう退院したよ!ご心配なく」
にっこりした絵文字付きで送られてきたメールに、東京への就職を決めて後悔したのが進路が定まった大学4年のこと。
そして、それ以上のことが起きたのが、今年の夏のことだった。
ある日、なんだか胸騒ぎがして、母にメールをした。
「せいなきほけんのかみはぱそこんのところにたかるから」
呂律の回っていないような返信に異変を感じて、すぐに電話をかけた。
繋がらない。おかしい。やっと繋がったときには、夢と現実の狭間を行き来しているような、呂律の回らない母の声だった。
「ねむれなくてね、睡眠薬30錠飲んでも眠れないの。
でも大丈夫。また目が覚めるかは運命だよ。ごめんねえ。あおいはなーんにも悪くないからね。あおいには迷惑かけないからねえ。
_____さいごに聞かせて?彼氏できた?」
「教えないっ!!!!!!!!!!」
自分でもびっくりするほど、電話越しに大きな声を出した。
「さいごなんて言うなら教えない!絶対に言わない!お願い死なないで、父呼んで、早く呼んで!何してんの!病院行かなきゃだから!早く呼んで!!!!」
死なないで、お願い死なないで。
矢継ぎ早に畳みかけながら、わんわん泣いた。あんな風に電話越しに泣き叫んだのは、後にも先にもあの時だけだった。
それからのことは割愛するけれど、紆余曲折を経て、すこしずつ母は落ち着いた。今では楽しそうに父と2人で生活している。笑い話にするには何年もかかると思っていたけれど、季節を跨ぐ頃にはもうすっかり笑い話にできていた。
ホルモンバランスの乱れや、気圧や、とにかく誰にもどうしようもないところで壊れてしまった母のことは、父がサポートしてくれていた。わたしはただ、必死に己の生活を営むことしかできなかった。
それでもふたりと同じ医療の道へ進んだわたしに、父は「どんな時でも患者さんの前では笑顔でいなきゃだめだからね、それがプロだからね。ママのことはパパがなんとかするから」と言った。その言葉を信じて、患者さんに必死に心を尽くした。そうしないと、いつか駄目になってしまいそうだったから。
「もう死のうとするなって言った。いくら家出してもいいから、どこかで生きててって」
すこし落ち着いてからふたりと電話したとき、父がそう言うと、母は「家出もめんどくさかったからもうしないかなあ」と笑っていた。なんやねん。まあいいけど。
わたしは岸田奈美さんがお母様に言ったみたいに、「死んでもいいよ」なんて言えなかった。2億パーセント大丈夫と励ますこともできなかった。わたしは、わたしのために母に生きていてほしかった。
それでも、家族はどうにかなった。
母も父も、笑っている。わたしの彼氏のクリスマスプレゼントを一緒に考えながら、「今の若い子はそんなの使わないよ〜!」と父の時代遅れのセンスを笑いながら笑っている。それがすべてだとおもう。それが家族なのだとおもう。
正解なんて分からないけれど、どうか。
なにか縁があって父と母が夫婦になったのだとしたら。そこになにかさらに縁があってわたしが生まれたのだとしたら。
遠くに居ても、いつまでも家族のことを愛していたいとおもう。
いつまでも、辛いことは家族で乗り越えて、乗り越えた先で笑い話にできていますように。そんなふうに願っている。