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ピアノがでかすぎるアンジェラ・アキ|真空ジェシカ|M-1グランプリ2024
テーマと目的
あけましておめでとうございます。2025年になりましたが、12月22日に放送されたM-1グランプリが自分の中ではまだ記憶に新しく、興奮冷めやらぬ気持ちで年を越しました。その中でも今回、特に私が笑ってしまったネタが最終決戦にて披露された真空ジェシカによる漫才「ピアノがでかすぎるアンジェラ・アキ」です。本稿では、このネタの笑いの構造、文化的背景を私なりに考えてみます。
※以下、ネタバレを含みます。ご注意ください。
ネタの概要
真空ジェシカの漫才「ピアノがでかすぎるアンジェラ・アキ」は、2024年12月22日のM-1グランプリ最終決戦で披露されました。このネタは以前からライブで試演されており(私は残念ながら未見です)、完成度を高めるために試行錯誤が重ねられていたようです。しかし、ライブでの反応は必ずしも安定しておらず、すべることも少なくなかったようです。(2024年12月28日配信のポッドキャスト『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』より)そのため、M-1の予選では披露を見送り、決勝進出が決まった段階で披露された経緯があったそうです。
このネタの全体構成は、「長渕剛のライブ会場だと思って入ったコンサート会場が、実際にはピアノがでかすぎるアンジェラ・アキのライブ会場だった」という設定を軸に展開されます。このシンプルながら突飛な状況設定によって、観客の頭の中には巨大なピアノと異様な光景が鮮明に描き出され、笑いの基盤が形成されます。既にプロットだけでも面白いです。
ネタの詳細について
入場とつかみ
ガクさんが丁寧な会釈で入場し、川北さんが独特な変顔で続くという視覚的インパクトから始まります。その後、川北さんの「智治さーーーーーん!!!」というつかみのボケに対し、ガクさんが「ミキティー側の意見」とツッコむことで、序盤から観客を笑いに引き込みます。さらに、川北さんは小声で「まーちゃんごめんね」と発しています。
一応簡単に触れると、この「まーちゃんごめんね」は、もともと俳優の大鶴義丹さんがマルシアさんに対して放ったとされる言葉であり、これを略して「まーごめ」と呼ばれています。お笑いコンビ・ママタルトの大鶴肥満さんが自身のキャラクターとして多用していることで知られています。川北さんもこのフレーズを使用していますが、2024年のM-1グランプリでは、ママタルトへの配慮から自身のネタ中での使用を控えたと明かしています。実際、川北さんは「ママタルトが出て(大鶴肥満さんが)『まーごめ』やった時に泣きそうになって…。(自分は)『M-1』ではやらないようにと思っていました。本物のまーごめが見れたので、優勝したといってよろしいでしょうか?」と語っています。
この部分で起きている笑いのポイントは、まず庄司智治さんと藤本美貴さん(ミキティー)の夫婦関係、さらに庄司智治さんの恒例ギャグ「みきてぃー!」を観客が知っていることが前提となっています。庄司さんのこのギャグは、ほぼすべての世代にリーチしていると言え、幅広い観客層が容易に理解できる設定です。その上で、ガクさんが「ミキティー側の意見」とツッコミを入れることで、逆視点のユーモアを提示し、掴みとしての構造を完成させています。
長渕剛さんのライブと設定導入
川北さんが「俺、一回でいいから、生で、長渕剛さんのライブ行きたいなって思ってて」と語り出し、割とどの世代にも親しまれたアイコニックな人物である長渕剛さんを主軸にネタが展開されるかと思いきや、実際には隣の会場で開催されていた「ピアノがでかすぎるアンジェラ・アキさん」のコンサートに迷い込むという展開でネタが始まります。(なんじゃそりゃー!)
この部分の最大のポイントは、奇抜な設定そのものと、ガクさんが観客と一体となり「そもそもピアノが大きすぎるアンジェラ・アキってなんだ」という疑問をツッコミとして返すことにあると考えます。この疑問が観客の心中を的確に代弁し、導入部分でしっかりとした爆笑を生み出しています。この時点で、初見の観客であっても(ほとんどいないと考えられますが)、二人のキャラクター性が一目で理解できる構造になっています。さらに、この設計によって、観客はネタの世界観に自然と引き込まれ、その後の展開への期待感が一層高まる仕組みとなっていると思います。実際、最初の大きな笑いのポイントは、ガクさんの「ピアノがでかすぎるアンジェラ・アキ?」という返しから生まれており、このフレーズがネタ全体の象徴的な導入として機能しています。
アンジェラ・アキさんのコンサート描写
川北さんがアンジェラ・アキさんのピアノ演奏を体現しながら、「拝啓、この手紙~」と歌い始める場面で序盤からアクセルを全開にします。巨大なピアノを顔や身体で弾く描写や、異様な速さの拍手を交えながら展開する演出が大きな笑いを生みます。
このシーンで生まれている笑いは非常に多層的で、一度見ただけでは全てを聞き取るのが難しいほど精密に設計されていると感じます。特に川北さんのアンジェラ・アキさんを誇張した演奏が爆笑を誘い、そこにガクさんのツッコミが小刻みに挟まることで、ネタが暴走しすぎず、観客を置き去りにしない構成になっているように感じます。
たとえば、「ピアノがデカすぎる」「顔でも弾いている」といったガクさんのツッコミは、観客が視覚的に理解していることを改めて言語化する「優しい説明ツッコミ」として機能しています。これにより、川北さんの行動の奇妙さを観客に再認識させ、笑いを強化しています。この「シュールな行動を補完するツッコミ」は、真空ジェシカの面白さだと感じます。
また、川北さんの「読んで〜読む手紙〜」「どこで何をして〜いる手紙〜」という歌詞のボケは、言葉選びの不可解さが秀逸です。「読んで読む手紙」という繰り返しの時点で既に奇妙ですが、「手紙が何をしているか」という表現は、手紙そのものに自我があるというさらに突飛な状況を暗示しています。このボケに対し、ガクさんが「手紙を書きすぎてるな、おい」と、一見ボケを無視したようなツッコミを入れることで、さらに笑いが増幅されます。このシーンでは「めちゃくちゃ手紙を読む」という行為そのものの異常性と、ガクさんの冷静なツッコミが絶妙なコントラストを生んでいます。
さらに、川北さんが「アキさーん!」と観客の一人を装いながら高速の拍手を繰り出す場面。ここでガクさんが「あー、その、その速い拍手やめてー」「競技用のやつ、気持ち悪いからやめて、それ」とジャブのようなツッコミを挟むことで、笑いの連鎖が起きています。「競技用の拍手」という日常と非日常のギャップを感じさせるような表現は、拍手という日常的なものを敢えて競技用とすることで、不条理な違和感を生んでいます。細かいボケとツッコミを一つとっても非常に鋭利で洗練されている印象を受けます。
その後の展開では、ガクさんが「いやだって、ピアノがデカすぎて、最後、(キリストが吊られているようなポーズで)神様みたいになってたよ」とツッコミを繰り出し、大きな笑いを誘います。これに対して川北さんが少し間を置き、「まあ、それは信じる神によるけど」とドライに正論で返します。この返しは真空ジェシカの漫才の真骨頂と言えるものだと感じます。川北さんがこれまで突拍子もない行動をしていたにも関わらず、急に冷静な視点を挟むことで、観客の意表を突き、爆笑のピークを生み出しています。この場面での会場の笑いの量は、動画でも確認できる通り、暫定でこのネタの最大値に達しているように思います。(動画で確認する限り)
ピアノがデカすぎることへの指摘
その後、川北さんが「ピアノがデカすぎることを指摘できなかった」という状況を語り始めます。この設定は観客にとって既におかしな指摘であり、通常ではあり得ない状況が展開されています。川北さんが「最初は気のせいかと思ったが、気がついた頃には手がつけられなくなっていた」と語る場面では、巨大化するピアノという視覚的なイメージを観客に想像させ、その非現実性が笑いの引き金となっているように見えます。
さらに、この段階での重要なポイントは、ガクさんのツッコミです。「どんどん大きくなっていったの?」という現実的な視点を提示することで、川北さんの非現実的な発言とのギャップが際立ち、観客の笑いを引き出しています。このツッコミは、観客が抱いている疑問や違和感を代弁する役割を果たし、観客とガクさんが同じ目線に立つことで共感を生み出しています。
また、「ピアノに押し出される形で会場を後にした」という川北さんの描写も、視覚的かつ物理的なイメージを観客の頭に強く刻みます。このシーンでは、シュールな設定をさらに誇張することで、不条理な世界観を一層深めています。そんな大事になっているにもかかわらず、川北さんが「言えなかった」という内面の葛藤を語ることで、観客は「なぜ誰も指摘しなかったのか」という疑問を抱きます。この疑問に対してガクさんが「じゃあ早く言えよ!」とツッコむことで、観客の違和感が笑いに昇華されています。個人的にも、ピアノが肥大しすぎて、会場から押し出される状況の面白さは到底思いつかないボケのアイデアであると感じました。
その後、川北さんが「じゃあお前言える?」と親指でガクさんを指しながら問いかけ、ガクさんが「僕は言えるよ」と応じることで、ネタの次の展開へと移行していきます。
エイリアンのように豹変するアンジェラ・アキさん
その後、再度演奏が始まり、一定の間を空けてガクさんが「ピアノデカすぎる!」と発します。このツッコミが展開のスイッチとなり、突如「ジャーン!!!だあれー!!!!!」という叫び声と共に、ネタの中心的なキャラクターであるアンジェラ・アキさんが豹変します。エイリアンのような振る舞いで、会場にいる観客の中から「ピアノがデカすぎる」と指摘した声の主を探し始めるという展開が描かれます。このシーンはネタ全体の中でも特にシュールさが際立ち、強烈な印象を観客に与えています。
まず、このパートの笑いの核となっているのは川北さんの演技です。ピアノに手を当てたまま、不気味な表情を浮かべながらゆっくりと会場を歩き回る川北さんの姿は、まるでエイリアンのような「誰が見てもわかりやすい怪物的キャラクター」を彷彿とさせます。声の主を探す鋭い視線、観客に手を伸ばして掴む仕草、嗅覚を使うような動きなど、細部にわたる緻密な演技がキャラクターの「異質さ」や「怪物らしさ」を引き立てています。これにより、観客はこの非現実的な状況をリアルなものとして受け止め、その不気味さと突飛な動きに自然と笑いを誘われます。
特に注目すべきは、川北さんが観客を「掴む」仕草です。一人の観客を凝視し、その後、嗅覚や直感を使うような動作で声の主ではないことを確認し、静かに離れる。その後、次の観客に向かう際には腰を曲げ、片手を羽のように上げる独特のポーズを取る(本人はビジュアル系のポーズと語っており特に深い意味はないと語っていました)など、演技の一つ一つがエイリアン的な「非人間性」を強調しています。このような細部にわたる演出が、観客に不気味さを感じさせる一方で、その異常さが笑いを生んでいます。
さらに、このセクションの重要な要素として、ガクさんのツッコミがあります。川北さんが「ウォーウォーウォー」と低い声で静かに長渕剛さんの「トンボ」を歌いながら観客の間を歩き回る場面で、ガクさんが「静かすぎて、隣の長渕剛がうっすら聞こえてくる」とツッコむことで、観客は冒頭の「長渕剛さんのライブに行く予定だった」という設定を思い出します。このツッコミは、川北さんのシュールな演技と絶妙に対比され、ネタ全体に広がりを持たせると同時に、観客に新たな笑いのうねりを生んでいます。
大きな笑いが生まれた後も、細かいやり取りが続き、再び演奏に戻った川北さんは、「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」をもじり、「ひーとーつしかない!この胸を〜」と歌い出したかと思うと、「何度もバラバラにされて〜、のか!?」というボケを繰り出し、さらにガクさんを震え上がらせます。これに対し、ガクさんが「バレてたー!!!」と反応し、その後、泣きそうになりながら「僕、何度もバラバラにされんの?」と悲しげに問いかける場面は、個人的に「誰がこの歌で人体がバラバラにされることを想定しただろう」という不条理さが際立ち、爆笑してしまいました。
さらに、このやり取りに続いて川北さんは、「何度もバラバラになる状態」を略して「何バラ状態」と称し、それを「南原状態」と解釈するボケで、なぜかナンチャンが登場するまで脱線します。
そしてネタは、再度「ピアノがデカすぎることを指摘する」というテーマに戻ります。
再チャレンジと結末
再び川北さんがピアノ演奏を始め、「テテテン、テテテテン、テテテテン」と旋律を奏でる中、ガクさんが突如「ここは誰が弾いてんの?」とピアニストを指差しながら問いかけます。この唐突な疑問に川北さんが「拝啓、」と演奏を一時中断して応じ、観客から大きな笑いが起こります。このような笑いは真空ジェシカらしいもので、過去の「ボリジョイサーカス」のネタでも、綱渡りをする人に寄り添う団員が空中で歩いているようなフリに対してガクさんが「この人浮いてない!?」とツッコむなど、観客が認識していない範囲から鋭利なツッコミで状況設定そのものを逆手に取った笑いを創出しています。
さらにガクさんが「勝手に音が流れているけど、誰が弾いてるの?」と問い詰めると、川北さんは「ダレテガミ(誰手紙)明美」と返します。この「ダレテガミ(誰手紙)明美」は、タレントのダレノガレ明美さんをもじった名前で、笑いを重ねます。その後、川北さんが「タメ口で手紙書くのやめない?」とボケを続けますが、このフレーズは、2015年に放送されたTBS系バラエティ番組『水曜日のダウンタウン』の企画「タメ口ハーフタレント」に関連していると考えられます。この放送では、ダレノガレ明美さんが年下のADにタメ口で話しかけられるドッキリに反応し、視聴者から賛否を呼びました。ネタの放送後、ダレノガレさんがXで「真空ジェシカさん、わたしの名前ありがとうございます」とコメントを投稿し、ユーモアを交えた優しい対応を見せたことも話題となりました。この部分に関してもある程度認識していないと面白さをを理解できませんが、個人的には「一体どんなところから引用してきているんだ」という面白さがありました。
次に、川北さんが巨大化したピアノの上に乗り、「拝啓、この手紙〜」と歌い始めます。これに対し、ガクさんが「もう鍵盤の上歩いてる」とツッコむことで、視覚的な異様さが強調され、笑いを誘います。無茶苦茶ですね。その後、「読んで読む手紙〜」と続ける川北さんに、ガクさんが「すいませーーーん!」と意を決して叫ぶと、川北さんが「ジャーーーン!!!」と大音量で反応します。川北さんがゆっくりと体を起こし、声の主を探しながらガクさんに近づきます。このとき、「好きです〜好きです〜心から」と長渕剛さんの「巡恋歌」の一節を歌い始め、曲が変わったことに気づいたガクさんが「曲変わった」とツッコみます。その後も「愛していますよと〜」と続けながら接近し、最終的にガクさんの髪を掴み上げ、至近距離で凝視するという緊迫したシーンが展開されます。ガクさんが「ピアノが…ピアノが…繊細で、美しいです」と絞り出すように言うと、川北さんが「アーヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」と不気味な笑い声を上げ、観客に強烈なインパクトを残します。
最後に、ガクさんが「怖すぎんだよ!!!」と叫び、「どうもありがとうございました」と挨拶してネタを締めくくります。川北さんもそれに続いて「ありがとうございました(ここだけ聞き取れず)」と挨拶をします。本当に圧巻のネタだったと感じました。
終わりに
2024年のM-1グランプリを見終え、大変な満足感を得ました。個人的な都合で劇場で直接観ることはできませんでしたが、一回戦からすべての芸人さんのネタを鑑賞し、その情熱を肌で感じることができました。中でも特に真空ジェシカは、ここ数年追いかけてきたことやラジオを通じたファンであることから、私の中では「優勝」でした。(自分の解釈や情報に間違いがあれば指摘してほしいです)
もちろん、素人の自分が漫才を語るのはナンセンスだと理解していますが、それでも、どこで笑いが生まれているかなどを考えることは私自身とても好きです。もしこの興奮を共有できる方がいれば、ぜひオンラインなどで感想を分かち合えれば嬉しいです。
一方で、つい最近放送された「あちこちオードリー新春ノーカットSP」(2024年12月31日深夜)では、伊集院光さんがM-1グランプリの審査員構成について懸念を示していました。伊集院さんは「いつからM-1の審査員が漫才経験者だらけになったのか」と疑問を呈し、かつての鴻上尚史さん、立川談志さん、青島幸男さんなど、異なるバックグラウンドを持つ審査員たちの多様性を懐かしむ一方で、「そういう文化は滅びないのか?」と危機感を表明していました。
さらに、審査員や観客が漫才通ばかりになることで、漫才が競技化し、特定の形式やパターンに偏る可能性を指摘。「早めにツカミの大きい笑いを取ろうと鋭角化していく流れは滅びる原因になる」との考えを述べていました。また、伊集院さん自身は「今のM-1に興味が薄れてきている」と率直な感想を述べていたのも印象的でした。
現状のM-1は節目にあると感じますが、2025年以降、笑いのトレンドがどのように変容していくのか非常に注目しています。次回のM-1も自分なりの視点で楽しみつつ、お笑いの未来を見つめ続けていけたらと思います。芸人さんは本当に格好良いですね。
おまけ
2024年12月28日配信のポッドキャスト『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』について
M1グランプリ終了後の、2024年12月28日配信のポッドキャスト『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』について2人が語っていた事についてもおまけとして触れてみます。博多華丸・大吉の大吉先生のラジオでは、アンジェラ・アキのネタにはあまり触れられていなかったそうで、2人はこういった事を踏まえて最終決戦のネタを「あんこが入っていないどら焼きのよう」と表現していました。「賞レース用に梱包した漫才しかやっていなかった」(今までの決勝では一本しかやっていない)ため、メッキが剥がれたとも川北さんは語っていました。また、川北さん自身、「面白い面白くないの問題ではなく、完成度が低かった」と振り返っています。最終決戦のネタは当初予選で披露する予定だったそうですが、モグライダーのネタ(このネタも非常に不可解で面白かったです)が予選で落ちたことを受けて、予選での披露を取りやめたとのことです。
M1前のライブでは、ヤーレンズの楢原さんから「決勝でアンジェラ・アキのネタはやらないんやろ?」というまさかこのネタを本当にやるのかということを聞かれたこともあったようです。トム•ブラウンの布川さんは「あのネタいいね。あれ、決勝いけるんじゃない?」とコメントしていたそうです。ついでにマネージャーの方も言ってたそうです。
川北さん自身、「アンジェラ・アキのネタは未完成だった。ただ、ちょっと梱包はしたものの、包装紙が破けたような感じだった」と述べていました。また、細かな部分として、「長渕剛のことは“さん付け”なのに、アンジェラ・アキは呼び捨てになっている」といった点も、2人にとっては気になる部分だったようです。
試行錯誤の中では、別パターンとして、「手がかゆいバージョン」もあったようで、このバージョンではピアノを弾いてるかと思いきや、「実は手がかゆいから指先をかいている」という設定だったそうですが、笑いがまったく取れず(こんなに面白い設定なのに)、やめたそうです。ネタ中に手がかゆいことを観客ちゃんと説明しようと、ゆっくり丁寧に説明した結果、ゆっくりすべったとも述べていました。また、「本物のアンジェラ・アキさんが一瞬だけ登場するバージョン」や、「ピアノが小さすぎる設定のバージョン」も試されましたが、いずれも整合性が取れず、観客に伝わりにくく却下されたようでした。
最終的に整合性が取れた部分として、「ピアノが巨大化した時のシーン」があったようです。そのため、決勝のネタでは最後のシーンで鍵盤の上を歩く描写が採用されたようでした。ただ、初期の段階では説明なしにいきなり鍵盤の上を歩く構成だったりもしたそうです。さらに、ガクさんには伝えていなかったようですが、「鍵盤の上にガクさんを乗せ、ピストルで足元を撃ち、それをガクさんがかわしてメロディーを奏でる」という案もあったそうです。ただ、トム・ブラウンのピストルネタとの重複を避けるため取り下げられたようです。そのパターンも観てみたかったですが。また、「最後にジャーン!と音を鳴らし、ガクさんの鼓膜が破れる」という案もフランスピアノのネタと被るため見送られたと語っていました。
結局、これらの案を取りまとめて「梱包」するには至らなかったようです。また、最終決戦のネタ中にあった「エイリアンになって2人目の観客を掴んだ後離し、ビジュアル系のようなポーズを取る部分」については、川北さん曰く「意味がない」と語っておりました。とにかくネタ全体として、川北さんは「完成度が低かった」と述べています。
一方で、Leminoでは一時ランキング2位に浮上するなど、注目を集めたようです。川北さんは「完成度が低すぎて、逆にみんな観たくなるのでは?」と語っています。また、「M-1でここまで完成度の低いネタが披露されたことはないのでは」とも述べています。
毎年、ネタには商品名を取り入れることが得策とされているようですが、今年の真空ジェシカは商品名を入れなかったようです(意図的ではなく)唯一ダレノガレ明美さんから反応があったものの、アンジェラ・アキさん本人からの反応はなく、「怒っているのかもしれない」と川北さんは語っていました。
アンジェラ・アキという象徴
アンジェラ・アキは、2000年代に『手紙 ~拝啓 十五の君へ~』で広く知られるようになり、ピアノ弾き語りという独特のスタイルが多くの人々に共有されています。私自身、中学時代の卒業式でこの楽曲を歌った経験があり、世代的にもアンジェラ・アキは非常に馴染み深い人物でした。そのため、このネタの世界観はすんなりと自分の中に入ってきました。
ただ一方で、「アンジェラ・アキを知らない世代が存在するのではないか」という点については少し考えさせられました。アーカイブ動画で観客の反応を何度も確認しましたが、爆発的な笑いが起きていることから、会場にいた観客の多く、またネット上での反応を見る限りでも、アンジェラ・アキはかなり多くの人にリーチしていると推測されます。しかし、このネタをあまり楽しめなかった人たちは、そもそもアンジェラ・アキを「アイコン」として知らない可能性が考えられます。その点で見ると、このネタは、タイムスリップを題材にした令和ロマンや、世界遺産をテーマにしたバッテリィズのネタと比較して、笑いの窓口がやや狭い印象を受けました。
それでも、私個人としては世代的にドンピシャだったため、迷いなくこの世界観を受け入れることができました。また、「そもそもアンジェラ・アキを題材として選んだことが適切だったのか」という議論がネット上で散見されますが、私としてはこの議論に素人が言及するのは無粋だと考えます。真空ジェシカの二人が(もしくはどちらかが)アンジェラ・アキのパフォーマンスを題材に選ぶほど「面白い」(そして「リスペクトを込めた」)と感じたこと自体が、このネタの魅力を構成する重要な要素だと考えるからです。芸人自身の視点や感性が生み出したテーマ選定を含め、その「面白い」と感じた対象が笑いに昇華されている点こそ、この作品の秀逸さを際立たせていると言えます。
また、このネタに関しては、ネット上でも意見が割れるポイントとして「実在する人物を題材にし、それをある種なじるような行為の是非」が挙げられます。この問題は、その人自身の倫理観や笑いに対する許容度によって大きく左右される要因であり、笑いが生まれるか否かを決定づける重要な要素であると考えます。具体的には、「実在の人物をここまでいじることが果たして許されるのか」という倫理観の閾値が高い場合、このネタを十分に消化できず、楽しめない観客がいる可能性も否定できません。
一方で、個人的には、真空ジェシカのネタには一定のリスペクトが込められていると感じました。そのため、この点については比較的寛容な視点で鑑賞することができました。特に、アンジェラ・アキのピアノ弾き語りのイメージをネタの核に据えつつ、それを大胆にアレンジする姿勢からは、単なる揶揄を超えた「笑いへの真摯なアプローチ」と「対象への敬意」が感じられます。このようなスタンスを前提に鑑賞することで、ネタ自体をより純粋に楽しむことができたのではないかと考えています。