『人権』を感じる瞬間が人それぞれあると思う
『人権』
非常にセンシティブに扱われがちな言葉だが、大事な言葉である。
一応元々は『Human Rights』の概念が持ち込まれたと思われるので、そちらの意味合いとも大きくは解離してないと思われる。
かといって厳密に「これが人権だ」と定義はされていない。
時代や状況によって概念が常に変化しうるからだと考えられる。
ちなみに日本的な解釈だとどんな風にとらえられてるかの一例が以下の通りである。
色々資料を漁っていると大体共通する人権の根元に『自由』という概念がある。
そうすると次は『自由』って何なんだとなってくるのだけど、一応私はザックリと『幅広い選択出来る状態』にある事だと考えている。
自分で選択する瞬間
「人生は選択の連続である」とはシェイクスピアがの言葉であるが、選択の質みたいなものには言及されてない。
名字や名前は選択出来ないし、学校やら何やらも大体地域の縛りがある。
実際のところ与えられた少ない択から選択していたに過ぎないだろう。
少ない択から選択している瞬間は「自由」かと言われると微妙である。
実際当時は考えた事も無かった。
私が「何でも好きに選べる」と実感した瞬間は自動販売機で飲み物を買う時だった。
大学生になって、アルバイトをして、120円を自動販売機でその時の気分に従って飲み物を選んで買った時に「自由だな」と感じた事を今でも覚えている。
そんなこんなで僕の人権意識は「飲み物を飲みたい時に自由に自動販売機で買えるかどうか」になっている。
百貨店で総菜を買う
「120円をいつでも使えるのが自由」だと感じてから一つ人生の目標みたいなものを立てた。
その目標とは「百貨店で総菜を自由に買って帰れる生活」である。
自由の概念を「好きな時に好きな物を飲食できる」ことに定めると自ずと上位の欲求が決まってくる。
一つ上の欲求は「定食屋に自由に行ける生活」でもう一つ上は「スーパーで自由に買い物できる生活」だ。
その上位欲求が「百貨店で総菜を自由に買って帰れる生活」だと考えている。
更に上に「イタ飯屋に自由に行ける」やら何やらあるとは思うが、酒も飲めなければ貧乏舌なので特に興味は無い。
定食屋には好きな飯はあるが、好きなデザートは無い。スーパーには総菜からデザート含めて選択の権利がある。
百貨店だと総菜もデザートももう1ランク上というわけだ。
百貨店で好きなケーキを買って帰れる今、人生の目標の一つを達成したと言える。
徳島県から百貨店がなくなった
なくなりました。
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