蝉と朝陽と子猫


唐突に言葉を綴りたいと感じる時というのは、
恐らく自分の中で何かが生まれようとしているのだと

そんな風に錯覚していたが、実際は己の戯言に耳を傾けてほしいだけのめんどくさい承認欲求の掃溜みたいなものだった。


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今朝いつものように現場(マンション)に向かうと、正面玄関に面する目の前の歩道、その道の真ん中で子猫が一匹倒れていた。


死んでいるのだろうか。


道行く人々はもれなくその子猫を見ては驚いたような表情をしたり、憐む様子を見せたり、時には怪訝そうな表情を浮かべる者もいた。

自分は少し離れた場所にある駐車場に車を停め、現場に戻りながら道路管理センターに連絡を入れた。


「子猫が一匹歩道で亡くなっている。」


現場の詳細などを連絡しているうちに子猫のいる場所まで戻ってきたので、今一度しっかりと状態を確認してみる。
ほんの微かに呼吸があるかもしれない、若干ではあるが肺が動いている気がした。とは言ってももう殆ど瀕死の状態であり、万が一に息があったとしてもここから助かる可能性は無いに等しかった。

「もしかしたら息があるかもしれないが、もう助からないかもしれない。」

電話口の相手にそう伝えると、もし生きているのなら関わってくる法律などが変わってきて我々では対処できない旨の返答をされた。一番早いのはそちらで警察に通報してくれとのこと。
多少違和感があったが、すぐさま言う通りに110番に連絡した。

繋がるまでおよそ1分。警察に通報することはごく稀なことだが、繋がるまでこんなに長い時間待たされるのか....有益な経験である。


これまでの経緯を説明すると、お巡りさんは少しめんどくさそうに「生きてようが、死んでようが、それは道路管理センターがやることなんだけどなぁ....」と仰った。



無意識に子猫に視線を落とす。


特に目立った外傷はないが、付近には細かい血痕と糞の痕。高所からの転落による内臓破裂だろうか。

「君の命はご多忙な人間様達に盥回しにされてるようだ。」


やるせない申し訳なさと、野生の摂理に関与してしまった背徳感が夏の日差しと共に自分を突き刺した。


ともあれ、こちらに向かって対処してくれるとのこと。
こういった業務もこなしてくれるお巡りさんには頭が上がりません。


蝉の鳴き声を聞きながら、そのまましばらく猫を眺めていた(仕事の材料搬入のためのトラック待ち)

すると、小さな子を乗せた親子の自転車が横切った。
そのお母さんは猫を見るなり自転車を止め、「あら、可哀想ね...」と一言。

そしてそのまま立ち去って行った。


「晒しもんになっててすごく不憫だな。」


気がつけばその猫に言葉をかけるようになっていた。
光の灯っていない瞳の黒は、私の暗鬱な心を映してるようだ。


そうこうしているうちに搬入のトラックが到着。
材料屋にもこれまでの出来事を話し、搬入にも影響するだろうとのことで道の端、植木の根本に移動することにした。

そこでようやく初めて子猫に触れた。



硬い。



すでに肉塊であると悟った。
動物の死に直接触れたのはいつぶりであろうか。


この猫も、自分以外の生き物に触れられたのはいつが最後なのだろうか。そういえば、この子の母親はいまどこにいるのだろう。そもそもこの子は生まれてから一体どれだけの時間を過ごすことができたのか。

突如として湧いてくる様々な感情。あらゆる彩度の色が一斉に混ざり、どろどろと混濁した情緒が心の底に溜まっていく感覚だった。


もし輪廻転生があるのならば、来世はどうか寿命を全うしてほしい。あわよくば幸せになってほしい。

人間のくだらないエゴが湧き出て仕方がなかった。


その後、警察が到着。猫は袋詰めにされ、その警察が手配した役所の職員によって連れていかれた。

ここでようやく、自分の起こしたアクションが一通り終了したわけである。



別にこのプロセスを踏んだからといって、綺麗に供養されるわけでもない。焼却処分され、それで終わる。

かといってすれ違う人々と同様にそのままにしておけばやがてカラスに食い荒らされ惨い姿になり、害虫に集られ余計に周囲に影響する可能性もある。



今朝、

あの時間に、

自分が出会ってしまったのだから、これが自分にできるせめてもの弔いだった。孤独に死んで野晒しになったまま朽ちるよりは、少しばかり良いのではないのだろうか。



という、強烈なエゴイズムと自己陶酔の話でした。




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