【短編小説】もう、サヨナラもいえない人よ
彼女の手はよどみない。
カッターマットの上に、手のひらほどの黒紙を乗せて思うままに切っていく。
昔はもっとうまく切ることが出来た。
髪の毛ほどに細い線も、針の穴ほどにちいさな丸も、彼女の操るデザインナイフは魔法のように切り抜いていた。
けれど老いてその手技も衰えた。
嘆く彼女には「衰えた能力は天にお返ししたものだから」なんてキレイな言葉も聞こえてきたが、老女は白髪を耳にかけて鼻で笑った。
切り絵作家と呼ばれ讃えられ、芸術の世界で感嘆のため息と拍手を飽くほど聞いてきた。
老いに食われていく自分を、彼女は最後まで愛さなかった。
彼女はまず作家をたたむ決意をした。
家族はなく、人を拒めば、あっという間に独りになった。
不思議にすがすがしい気分になって、規則正しい寝起きをして荒れ放題の家に手を入れてみた。毎朝きれいに身仕舞いして三食手間ひまかけた料理を作る丁寧なくらしを、似合いもしないのに試してみたりもした。
案の定すぐに飽きた。
髪ふりみだし、縁側で頬杖をついてうなる彼女を、生け垣の隙間からそっとのぞいた小学生は「山んば!」と叫んで逃げたという。
もとの彼女の生活に戻るのに時間はかからなかった。
枯れきった草花の倒れる庭にクサい糞を残すぶち猫を追いまわし、家の壁に小便をかけていくプードルに憤り、誰も受け止めない世界への憤怒を胸の中でうず巻かせた。
漬物をかじり、飯を茶で流し込む日々の方が似合う自分に、彼女はカッカとノドを開いて大笑いした。
気づけば自分の影を見つめてばかりいた。
──生きるのか。
真っ黒な影の向こうからの問いかけに。
──もう自分は消えていい。
浮かびあがった答えは、すでに胸に強く刻まれていた。
芽生えた思いは衰えることなく、ついに彼女は最後の仕事に取りかかった。彼女は、自分の最期を、こうすると決めていた。
はじめは足先から切っていくことにした。
西日の強い秋分の夕暮れ。
打ち直したばかりのアスファルトの上に立ち、こわばった身体を折り、つま先に触れてシールをめくるように爪を立てる。
すると、影ははしからするりとめくれた。
彼女の顔が愉快そうな色を宿す。
もう少しめくって折り目をつけ慎重にやぶいてみると、影は裂けてピリピリと音をたてあっけないほどつるりと切れた。切り口はフィルムのように鋭く、彼女の手にはひらひらとした影が残る。
影は彼女の足下から十センチほどなくなっていた。
西日に当てても透けないほど黒い闇。おあつらえ向きの素材に胸が躍った。
彼女はにたりと笑うと、自宅にとって返した。
手のひらの影が、彼女の胸に最後に射込まれた光になった。
彼女は大笑いしながら、ずいぶん前に閉じたきりのアトリエのカギを開いた。傷だらけの机の上にずらりと並べたデザインナイフから、一番お気に入りのものを選ぶ。枯れた指先の力にも、こたえてぬるぬると動くするどい刃。するすると影を切り抜いていく。定規よりもまっすぐに切れた線は満足のいくものだった。
ほこりのおりたアトリエに、鼻歌が響く。
彼女はちいさな影の中に、光差す庭にたたずむ少女の姿を次の朝までかかって切り上げた。
しびれるような快感に夢中になった。影のなめらかな切り心地は今まで切り続けてきたどんな扱いやすい紙にもないものだった。
彼女は朝日と夕日の中に立ち、日毎自分の影をハサミで切り取った。
そして夜に日を継いでアトリエにこもると、老いてふるえて痺れていたはずの手で、影の中にナイフで世界を描き込めてゆく。
次に切って描いたのは、死んだ母が仕立ててくれた気に入りの振り袖。流れるような熨斗柄に細やかな刺繍の手まりが遊ぶ様子を切った。すこし悩んで若いころの友人に「仲良くしてくれてありがとう」と便りを添えて送ることにした。
手首をぶつりと断ち切った影には、ほんのひととき通った教会で伝え聞いた「神の子の昇天」の様子を心に浮かぶままつぶさに写した。そして白い便せんに「私もゆるされますか」と未練がましい一筆を添えて包み、老牧師のいる教会に送ることにした。
彼女は俄然いそがしかった。
彼女の偏屈な人間性とあふれる激情を愛しながら疎んだ人たちが、不思議なほど次々に浮かび上がってきたからだ。血が出るほど激しいケンカ別れも、いまとなってはどこか愛しくも思われた。
醜いほど自分勝手な感傷を、また彼女は大笑いした。
一枚切り上げるごとに、くすぶる予感は日増しに強くなる。
書いた手紙はすぐには出さず、そのときまで溜めておくことにした。
毎日毎日、影を切る。
好きだった山の夜明け、昔飼っていた小鳥。懐かしい街の風景や、いつか訪れた外国の景色。モノクロの世界を白い便せんに包み、踊るような字で宛先をいれた封筒に大切に封じて閉じこめてゆく。
影に添える手紙には、途中から同じひとことを書くようになった。
「どうぞしおりにでもしてください」
もう声も思い出せない恋人や疎遠になった友人知人、いつかほんの少し関わった仕事仲間にも。
書き続け、切り続けて、一〇〇枚を仕上げた夜。
すべての影を失った彼女は一通の長いメールを書き終えると、翌朝九時発信の予約をいれた。
それから、たくさんの封筒を近くの赤いポストに押しこみに行った。
家に戻り、明かりを消したアトリエの床に薄織の敷物をひっぱってきて、静かに横になる。
月明かりだけの部屋で、老女は白い天井をまっすぐに見て目を閉じた。
しなびた両手を床に伸べ、寝食忘れて枯れるように息絶えた死に顔はこのうえなくおだやかなものだったという。
〈切りきざんだ影は、明日からきっといろんな人たちの手元に届いていくでしょう。あらステキと思う人がいるでしょうか、薄気味悪いと捨てられるかもしれませんね。
そうすると、燃えるゴミの日に出すかしら。ひょっとしたら紙ゴミ扱いにするひともいるかもね。影ってリサイクルできると思う?〉
──彼女の最後のメールは、そんなユーモアのあることばで閉じられていたそうです。
「なるほど、不思議な話ですね。それがこの作品だというわけですか?」
美術館の広い壁に飾られた等身大の切り絵の大作から目を離して、老人はそばに立つ学芸員に尋ねた。しゃんと伸びた背を仕立てのいい背広で包み、中折れ帽を白髪に乗せた彼は、人型のシルエットの中に緻密に描きこまれた切り絵にもう一度目をこらした。
美しい着物の図案から、人物像、はるか異国の風景まで。
下絵もなしにナイフで鮮やかに切り抜かれた白黒の彼女の世界。
吸い込まれるほど黒い用紙は九十九に分割されているといい、つま先から指先まで隙間なく詰まった作品群は見るものを圧倒すると評判だという。
「そうです。のちに第一発見者となる、彼女が懇意にしていた画商へ送ったメールには、影の切り絵は個々人に郵送したと記述がありましたが、これら九十九枚の切り絵のパーツは彼女の遺体の下に添うように残されていました。それこそ、まるで影のように」
「ほう……。では手紙の受取人たちに届いたのは、白い便せんだけだというわけですね」
老人は大学を出たばかりぐらいに思われる、年若い青年に相槌を打った。
「その通りです。あまりの異様な死に姿にはじめは自死も疑われたほどです。現在では、病死とされています。一〇〇通の手紙も作家の最後の遊び心。もしくは精神的な疾患・認知症に起因する、ある種のせん妄状態でなされたものであったろうかと推定されています」
「なるほど。自分の影を切る、なんて荒唐無稽ですからね。そうなのかもしれません。しかしこの作品、欠けがありますね。心臓あたりが裂け目のように」
老人が切り絵の胸の辺りを差し、空にゆるい楕円を描くと、青年は待っていたとばかりに口を開いた。
「この稲妻の形に切り抜かれた箇所は見つかっていません。初めからなかったのかもしれない、ともいわれています。この空白が、かえってこの作品の神秘性を高めているといえるでしょう」
「いや、お詳しいですなぁ。勉強になりました。もう少し見ていきましょう。彼女の人生が詰まった作品のようだから」
おしゃべりな学芸員とひとしきり話し終えた老人は、礼を言うように中折れ帽に軽く手を当てた。
そして、等身大の切り絵作品の前にいつまでも立ち尽くしていた。
独り歩んだ作家の生涯を、ゆっくりとたどるように。
心の裂け目のようで、最後の光の矢のような。
影のしおりを内ポケットにひそかに抱いて──。
おわり