観劇 ねじまき鳥クロニクル わたしのプロローグ
先日東京芸術劇場にて ねじまき鳥クロニクルを観劇。コロナ以降舞台は見ていないはず、その前の一年間東京を離れて広島に住んでいた時もみていないはずなので観劇は4-5年ぶりくらいになる。
演劇には疎くてたまにミーハーに見に行く程度だけど
少しお洒落をして背筋を伸ばして劇場に向かう、幕間にロビーで珈琲を飲んだりする、現実との堺が曖昧なまま余韻に浸りながら帰路に着く、そんな一連の観劇体験が好きだ。
ねじまき鳥クロニクルは見たいなと思っていた舞台だったものの、まだ生まれてまもない赤子がいて自由に出歩けない中で躊躇していてそのうち忘れていた。生後100日、お宮参りの時にうちにきた姉のアユが最近こんな舞台を見てね、と話しをしていて思い出した。子供と離れて外出は気分転換にもなるし、久々に観劇もよさそう。チケットもまだ少しありそう。よし、友達に声をかけて見に行こう。
ネットでチケットを購入してから慌てて読みかけの文庫本「ねじまき鳥クロニクル」を引っ張り出す。ここらへんにあったはず、あったあった。長いこと持ち歩いたりお風呂の中に持ち込んだりしていてカバーがとてつもなく年季入り。ただこんなにボロボロだけど読み切っていない。何年も何年も読もうとして頑張ったけど読み進められずにボロボロになった。ねじまき鳥は私の中で読みにくい村上春樹長編暫定第1位。ちなみに第2位はノルウェーの森(なんとか読み切ったけど)。若い時は性的な描写や描かれる女性像に違和感があって村上作品がとても読みにくかった。正直言うと気持ち悪いと思ってしまうことがあって作品にのめり込めなかった。よく言われるミソジニーとは決して思わないけど、違和感はたしかにあった。いまはたぶん、歳をとって、男の子も産んで、性に対する考え方というか、人生観というか、変わってきたこともあって違和感は薄れている。まだ少しあることは事実だけれど、だからこそ魅力的であると思っている。世界の終わりとハードボイルドワンダーランド、羊をめぐる冒険、などは大好きで、これらを入口にしていくつかの村上作品にはのめり込んだ。これらについてもいつか別途、言葉をまとめたい。
話を戻すと、このような言い訳のもと「ねじまき鳥クロニクル」は3部作のうちの1部で読み止まっていたわけで、舞台をしっかり堪能するためには残り2部を急いで読破しなくてはならない。この時すでに観劇まで残り5日程度。
結果的にいうとわたしは第2部 泥棒かささぎ編 までしか読めずに舞台を見に行った。急いでアマゾンで買い足した第3部は観劇の日の朝に投函されていて、それを出がけにポストから取り出しそのままカバンに入れて芸術劇場まで向かった。もちろん読めていない。
本を読んで舞台を見た人、内容を知らないで舞台を見た人、それぞれの楽しみ方があると思う。かくして私は、3分の2読んだ人、という中途半端な状態で舞台を見た。このお話、登場人物が多いのも特徴的だと思う。
観劇前に舞台のパンフレットを見て、ナツメグとシナモンてだれよ、なによこの男、3分の2まで読んだのにまだ知らない登場人物こんなにいるのかよ!と驚愕した。 どんどん沼に沈んでいくかのように読み進めるほどに物語の複雑性が増していくのが村上作品らしさだとも思う。私たちはどうしても読み進めるほどに正体が明らかになっていくこと、全体がみえてくることを望みがちなのに、歯切れの良い小説や映画のように簡単には理解させてくれない、それが村上作品の魅力だと思っている。だからパンフレットをみてびっくりして、そして思わずにんまりしてしまった。と言うのが私の観劇までのプロローグ。村上作品は読み進めるほどにどんどん深みに沈んでいくような感覚、まるでアルコールみたいだ、と思っている。これを読み解いて分解してまた組み立てて、舞台化するってこと、本当にすごいと思う。その想像力や創造力は私の理解を恐ろしく超えていて世の中にはすごい人がいるもんだ、いやはや自分の中身はほんと「ゴミや石ころみたい」だな、と思う。(文中の言葉を借りています)
話を3分の2までしか読んでいなかったからちょっと面白かったことがもう1つ。作中に出てくる猫のこと。保護猫をうちにむかえた時、名前をどうしようか迷って村上作品に出てくる猫から名前を取って「イワシ」にしようかと考えていたことがあった。私の姉の名前が生まれた日に病院で鮎を食べたからという理由で「アユ」で(漢字は違う)、妹の私も下手すると「イワシ」とかになってたかもねーとか家族で話していたことがあったのでそのネーミングにシンパシーを感じていた。猫の名最終候補まで残ったけれど、かくかくしかじかでうちの猫はイワシにはならなかった。いまでも時々イワシになりかけた猫、であることを思い出す。わたしもイワシになりかけた女、なのかもしれない。ねじまき鳥の舞台の後半で行方不明になっていた猫が見つかって、それまでとりあえず綿谷ノボルと呼ばれていた猫に新しく正式な名前が授けられる。舞台上で叫ばれた新しい名前は「サワラ」だ。 これには思わず笑ってしまった。こんどの猫は鰆(サワラ)なのかと。小説の第3部鳥刺し男編でたしかにこの命名エピソードがでてくるのだけど(観劇後読みました。)、わたしの中ではもう何年も何年も読み止まっていて、つまり行方不明になり続けていた猫が2023年にこの舞台で見つかって、サワラという名前をもらった。なんだか一連のストーリーが繋がったような、いえ別に繋がっても分散してもいないんだけど、嬉しくなってしまった。
舞台観劇の感想を文章に残しておこうと思ったけれど自分語りのプロローグで長くなってしまったのでいったん今回はおしまい。舞台自体の感想は次につづく。この経験をちゃんと大切にしておきたいと思うから余韻に浸っている間に書かないと。結局舞台の感想も各々が持ってる知識や背景に深く影響されて、そして自由に受け取って良いものだから、それはきっと本筋から離れていてもよいんだと思ってる。だからこそおもしろくて正解も不正解もなくて共感されてもされなくても、それでいいんだよね。つづく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?