◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その1】唐十郎が名古屋に残した爪痕
<名古屋・戦後意外史>
終戦翌年の昭和21年5月に名古屋で産声を上げた夕刊紙「名古屋タイムズ」は平成20年10月の休刊まで、一般紙とは一味違う切り口で世の中の出来事を報じた。膨大な記事の中から、歴史に埋もれた意外な事実を掘り起こす。原則敬称略で、毎週土曜日・日曜日に掲載する。(本記事は、月刊東海財界の連載を加筆修正したものです)
●名古屋初見参は昭和44年夏
1960年代から70年代にかけてアングラ劇を牽引した唐十郎が令和6年5月4日に亡くなった。84歳だった。
唐は昭和38年に「特権的肉体論」を掲げて「状況劇場」を旗揚げ。42年夏、新宿・花園神社に紅(あか)テントを建てて活動を開始。44年1月には新宿西口公園でゲリラ公演を行い名をはせた。
その年の夏、唐が率いる「状況劇場」は名古屋で初興業を打った。7月26日~30日に中区・若宮八幡社境内に紅テントを設けた。当時、唐は「新宿という点から日本全国、世界への線の興業へ」と方針を変更、「日本列島南下興業」と銘打ち、6㌧トラックに一切合財を詰め込んで沖縄までの巡業を敢行中だった。
名古屋は浜松についで2番目の公演地で、出し物は十八番の「腰巻お仙・義理人情いろはにほへと編」。役者は唐座長のほか李礼仙、麿赤児ら17人。名古屋タイムズ(名タイ)によれば―。
唐座長は名タイの取材に「いまや、東京へと足を向けた時代は過ぎた。沖縄、ベトナムの南で火と手があがっている。南を除いてボクたちの芝居は成り立たないような気がする。沖縄・ゴザの基地を背景にテント興業をぶっぱなす」と話した。
その後、京都―広島―福岡―沖縄と南下した状況劇場は東京への帰途、9月17日~21日に再び若宮八幡社で公演した。出し物は「腰巻お仙・振袖火事の巻」。名タイいわく―。
以下、記事では唐と仲間たちの「南下作戦」が詳細に書かれている。貴重な記録なのでご興味のある方は図書館で検索いただきたい。
●文化とは「少年のくるぶしの美しさ」
唐は昭和63年に「状況劇場」を解散して劇団「唐組」を旗揚げ。平成13年4月には豊田市の駅前広場で公演した。地元商店主らの招致で実現したもので、出し物は「闇の左手」。
公演を前に豊田市役所で記者会見した唐は「自動車産業という実業の街と芝居という虚業が抱き合う。虚と実のカオスの中で都市は栄える。ここで芝居ができるのはうれしい」と語った。
豊田の印象については「市街地は東京の下町、裏町を思い出した。招致してくださった人たちが歓迎会を催してくれたが、こんなことは初めて。人肌を感じた」と話した。一方で「昔のお客さんは怖かった。学生運動のころはナンセンスとかヤジが飛んだ。芝居は虚だからナンセンスは当たり前なんですがね。しかし、そんな荒っぽい市民であってほし。豊田のお客さんも燃えてほしいね」と“挑発”。
そして、以下のような「文化論」を展開するのだった。
「文化という言葉がありますが、世界的に文化とは何かというのが大きなテーマになっている。昔、戒厳令下の韓国で韓国の詩人と対談して、彼に『文化とは何か?』と聞かれて、とっさに答えられず『焼け跡の前を横切る少年のくるぶしの美しさ』などと言ってしまった(笑い)。彼の答えは『文化とは戦いの結果だ』」
「一方では文化包丁とか、「文化」はいたるところにある。最近文化人類学者の山口昌男さんが『文化とは仮設』とおっしゃった。とすれば仮設で芝居をする紅テントも「文化」なのかなと」
終
次回の名古屋・戦後意外史は
<名古屋タイムズに刻まれた鳥山明の素顔>
お楽しみに