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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その16】<天敵・タモリが名古屋で毒を吐く~昭和56年6月11日>

●国民的タレントになる前の「名古屋いじり」

 お笑いタレントの大御所・タモリは、かつて名古屋をバカにする「名古屋いじり」のギャグを持ちネタにしていた。名古屋弁の語尾の「~みゃあ」やエビフライ好きなど名古屋文化を俎上に載せて笑いをとるものだが、当の名古屋人は笑ったり、怒ったり。
 昭和51年にメディアデビューしたタモリは、インチキ外国語やイグアナの形態模写などを売り物に次第に人気を集め、昭和57年10月にスタートしたフジテレビ系の昼のバラエティ番組「笑っていいとも」でブレイク。国民的なタレントとなった。「名古屋いじり」は「笑っていいとも」がスタートする前の昭和56年頃に始めたネタ。タモリが上昇気流に乗っかったイケイケの時期だ。
当時、名古屋市が昭和63年の五輪開催地に立候補して全国的な関心を集めるなか、名古屋に対する「違和感」をおちょくるネタはタイムリーであった(名古屋市が五輪誘致合戦に敗れるのは昭和56年9月)。この「名古屋いじり」の芸を引っ提げて、タモリが名古屋に乗り込んできたのは昭和56年6月11日のことであった。

●名大、愛知県勤労会館で「毒舌」全開

 この年、タモリは、ビートルズのアルバム「マジカル・ヒステリー・ツアー」をもじった「ラジカル・ミステリー・ツアー」と名づけた全国ツアーを敢行。名古屋公演は6月12日に名古屋市昭和区の愛知県勤労会館で行われたが、その前日の11日に名古屋大学の学園祭のイベントで登場した。その様子をレポートした名古屋タイムズによれば、これが「本場での初の名古屋いじり」であった(以下、<>内は名タイの記事)。

<会場の同大・豊田講堂は約1500人の学生で、通路も身動きできないほどの超満員。黄のシャツに白のスラックス、それにトレードマークのサングラス姿でタモリがステージに現れると、会場は拍手とクラッカーのはじける音、タモリめがけて投げられるテープ、トイレットペーパー、さらに名古屋名物きしめん、まんじゅうまで飛び、大騒動>

以下、記事では名古屋攻撃のギャグが書き留められているが、現代ではコンプライアンス上、書くことがはばかれるものもあって引用は省略。拝聴した名タイ記者はこう評した。

<どこまでホン気のおしゃべりか不明だが、名古屋をよく調べたうえでの“冗舌”であることは事実。根も葉もないことなら、シラケるだけだが、いちいち「お説ごもっとも」な部分があり、(中略)このあたりがツービートの低級なイビリとは違い、大学生当たりにバカ受けする理由のよう>

●翌年は「当たり年」に

 名古屋の天敵・タモリは年が明けた昭和57年正月、名タイ元旦号芸能ページの1面を飾っている。「名古屋いじり」で名古屋人にとっては「時の人」となったタモリはCBC制作、正月3日放送のバラエティーショー「謹賀新年 名古屋から愛を込めて・タモリ」に出演。記事は、その収録で名古屋を訪れた際のインタビューと、きしめんを食べたり、パチンコに興じたりする写真とともに構成されている。

<テレビ、ラジオを合わせると、10本近いレギュラー番組を抱える超売れっ子。この4月までびっしり満杯のスケジュールだ。が、その忙しい合間に奇想天外、抱腹絶倒のギャグを編み出す。「計画的になにかをやるってことはないんですよ。いつも行き当たりばったりで、それが当たればドーッと乗っかっていく」>

<ブラウン管でのハナモゲラとは裏腹に、いたって穏やかな言葉づかい。素顔のタモリは、あたかも銀行員といったイメージで品行方正、バカ騒ぎをしない。常識人間なのだ>

 「良い話があったら、ドラマもやってみたい。歌や楽器演奏もね。まあしかし、4月まではレギュラーで手いっぱいだから、やるにしてもそれ以降でしょうが」と話していたタモリ。
 インタビューの段階では企画は進んでいたのだろうか。この年10月に始まった「笑っていいとも」で国民的タレントになるのは前述のとおりである。


次回の名古屋・戦後意外史は
<バニーガールもいた名鉄レジャック~昭和47年11月15日>
お楽しみに

◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 まとめ読み】🔽

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