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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その20】<名古屋が生んだ新作落語の巨星・三遊亭円丈の青春>

「グリコ少年」など数々の新作落語を演じ、後進に大きな影響を与えた名古屋出身の落語家三遊亭円丈師匠(本名・大角弘)は令和3年11月30日に亡くなった。76歳だった。真打になる前から、ご当地の名古屋でしばしば高座に上がり、名古屋タイムズでも取り上げられた。同紙の紙面から新作落語の巨星の青春時代を偲ぶ。


●守口漬けで入門成功

 昭和44年7月、名古屋・大須演芸場に出演した際、同紙が取り上げている。当時の高座名は三遊亭ぬう生。24歳だった。
ぬう生=のちの円丈師匠は名古屋市瑞穂区の雁道生まれ。市立御剣小学校、瑞穂ケ丘中学、熱田高校を卒業後、明治大学文学部に進学したが2年で中退。三遊亭円生に弟子入りした。以下、<>内は名タイ記事。

<その時、20歳。師匠円生に一度諭されたが、1か月後に守口漬けを持って上京したところあっさり入門させてくれたとか。若いのにネタは古典がお好き。まだ二ツ目の新入りだが、初めての生まれ育った名古屋の高座とあって「お客さんの顔などわかんないですよ」と汗みどろの大熱演をしている。「兄弟子からはなし家になってよかったと思うときがきっとくるから、それまでガンバレ…といわれているので、まあ気長にやってみます」と、童顔をほころばせるのだった>

●新たな落語を模索

 1年後には名鉄ホールの芝居に出演するために来名した師匠の円生の付き人として里帰り。この機に名古屋市東区の含笑寺で開かれた落語会「ぬう生を励ます会」に出演した。ぬう生は「万金丹」と「宿屋の富」の二席を演じ、円生も高座に上がった。
 この模様を、名タイはインタビューを交えて大きく取り上げている。記事によれば中学時代から無類の落語好きだったぬう生こと大角少年は、落語全集を読みあさり、ラジオの落語も欠かさず聞いた。落語でメシを食おうと決心したのは高3のとき。「サラリーマンと家業の写真屋だけにはなるまい」と思ったという。
 明治大学では演劇科に入ったが、理論中心の授業にあきたらず、もっぱら寄席通い。「大学の落語研究サークルはアマチュアだから関係しなかった」とプロへの決意は固く、中退し円生に弟子入りした。「ぬう生」という高座名は、その印象がヌーボーとしていることからつけられた。
 当時は古典落語を修業する日々だが、新たな落語を模索する様子がインタビューからうかがえる。

<「古典落語ってむつかしい。今の若い人には、漱石でさえ注釈をつけなきゃ読めない。本は文中や巻末にでも注釈をつけられるが、落語はそうはいかない。ハナシの中でいちいち説明をしていたらブチコワシ。結局わかりやすくするしかしようがないと思う。こまかい味を失わないよう気をつけて。第一、廓の習慣や風俗がもうわからない。経験のある師匠方ならいいですが、われわれじゃ話の切り出しの枕さえうまくできない><だから、自然、話のテンポやネタを現代風におきかえるよう考えている。うちの師匠は芸がしっかりするまでは型にはめる方ですが、最近は若手の工夫も取り上げてくれるのでやりがいがある>

 当時の落語会は、常打ちの寄席が減って、名のある師匠でさえ高座のお休みが続く状態。大喜利だけのテレビ番組ではタレント落語家が引っ張りだこだが、本格的な噺(はなし)の世界は下火になっていた。そんな時代にあって、若き落語家ぬう生は将来についてこう語る。

<「笑いの質も変わってきた。ふつう笑っていけない人情噺、たとえば円朝の牡丹灯籠で若い女性がなぜかよく笑う。笑ってほしいところで笑わないなんてこともザラ。こちらの芸の未熟もあるでしょうが、幇間(ほうかん)ものの笑いでも、ボクはタイコもちの悲哀まで感じてもらえるようなハナシがしたい。それが本当の笑いではないだろうか>

 のちのエキセントリックで爆発的な芸風とは裏腹な冷静な分析とペーソス。円丈師匠のもう一つの顔は落語協会の分裂を描いた著書「御乱心」を読むとよくわかる。


次回の名古屋・戦後意外史は
<「市民の足」から「魚のアパート」に~海に沈んだ市電たち>
お楽しみに

◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 まとめ読み】🔽

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