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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その12】<名古屋に「日活ロマンポルノ」がやってきた〜昭和46年12月1日>

●ハダカで出直し

映画会社日活のポルノ路線、いわゆる「日活ロマンポルノ」が誕生したのは昭和46年。11月15日に第1弾が全国一斉に封切られたが、名古屋では劇場の関係で1週間遅れの12月1日からスタートした。
 日活は大正元年に創業した名門で、戦後の映画黄金期には石原裕次郎や小林旭らスターがスクリーンで暴れまわり一世を風靡したが、テレビ時代の到来などによる映画産業の斜陽化にともなって低迷。その打開策として打ち出されたのが「ロマンポルノ路線」であった。
 「ポルノ」と言えば「日活」のイメージがあるが、当時はすでに大蔵映画などによるピンク映画があり、大手によるポルノ路線も東映が昭和42年7月にスタートさせている。それでも「日活ロマンポルノ」が人々の記憶に残るのは、数々のスターや監督を輩出したことも要因だろう。

●張り切る女優陣

 さて、「日活ロマンポルノ」の第1弾は白川和子主演の「団地妻 昼下りの情事」と小川節子主演の「色暦大奥秘話」である。
 公開前に、小川と第2弾「女子高生レポート 夕子の白い胸」主演の片桐夕子がキャンペーンで名古屋タイムズを訪れている。以下、<>内は名タイ記事より。

<2人とも19歳。「最初はちょとはずかしかったけど、仕事のためですから」と、割り切っていてきわどいシーンの撮影もそれほど気にならなかった様子>

 小川は児童劇団出身で、少女雑誌のモデルやCMの経験はあるが本格的な演技は初めてだった。片桐はデビューまでの1年間、日活演劇研究所に籍を置いていたが、セリフ付きの映画出演は初めて。

<(片桐は)「10日間で撮影してしまうので、とても忙しかった」とケロリ。試写を見て、自分がきれいにうつってたのでホッとしたそうだ。横から小川が「私も忙しかったので、お腹がすいていつもよりよく食べたわ」と笑う。とかく悪くい合われがちな内容の映画だが「仕事をしている時は、本当に充実した気持ちです」と2人とも口をそろえる>

●攻防戦

「日活ロマンポルノ」が世に出たのは、エロスの表現が解放されていく過渡期だった。昭和46年から翌年にかけて公開された日活ロマンポルノの4本について警視庁は「ワイセツ」として、昭和47年に次々に摘発。刑事裁判では表現の自由を巡って争われ、1,2審とも無罪。昭和55年7月に確定した。以後、日本の性表現、性風俗は過激になっていくのだが、それはまた別のハナシ。
 桜田門から摘発された直後の昭和47年5月、日活ロマンポルノの女優6人がポルノ路線スタート半年を機にPRのため来名した。水着姿での会見となったが、インタビューはどうしても事件の話に。

<2度の手入れにひっかかった(「ラブ・ハンター 恋の狩人」と「愛のぬくもり」の主演2作)田中真理は「警視庁のアイドル」と自称。お役人の石頭ぶりを笑い飛ばす。「ワイセツでも何でもないのに…。まるっきり次元が違うところで、ギャアギャアわめいているような感じ。おこる気もしない」とすましたもの。白川和子は「お客さんが喜んでくれれば、それでいいじゃないの」>

 昭和54年12月20日には、名古屋駅前の「ナゴヤ駅前にっかつ劇場」で正月映画「桃子夫人の冒険」の女性だけの試写会が開かれた。女性層への浸透を図った企画。

<開場を前に、劇場前には数十人の列。中年婦人からヤングギャルまで“初体験”を前にして、ちょっぴり緊張した表情。グループで来場した主婦は「一度は見てみたいと思っていた夢がかなって…」と興奮気味。21歳のOL2人連れは「会社をさぼってきた」とアッケラカン。この日の入場者は130人。劇場側は「初の試みだったが、まずまずの成功」とニンマリ>

 AVなど性表現が過激さを増す中、「日活ロマンポルノ」は昭和63年5月公開の「ベッド・パートナー」「ラブ・ゲームは終わらない」の2作で終了した。


次回の名古屋・戦後意外史は
<テレビ放映70年。名古屋で活躍した「刑事」たち>
お楽しみに

◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 まとめ読み】🔽

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