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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その5】<北川民次が名古屋の子どもに託した夢>

メキシコでの活動を経て東京や愛知を拠点に活躍した洋画家の北川民次(1894-1989)が令和6年に生誕130年を迎え、名古屋で回顧展が開かれた。戦後、子どもの美術教育にも力を入れ、名古屋タイムズが主催し東山動物園で開かれた子ども絵画教室にも力を注いだ。その思いとは何だったのだろうか?名タイ記事から迫った。


●画壇のアウトサイダー

 北川は明治27(1894)年、静岡県生まれ。早稲田大学時代に絵を描き始め、大正3(1914)年に中退して渡米。劇団の書き割り職人の傍ら労働運動にも参加。ニューヨークで美術を学んだあと、革命直後で激動するメキシコに渡り、子どもらを対象にした美術学校の教員を務めた。
 昭和11年に帰国して東京で活動後、戦中に瀬戸市に疎開、昭和43年まで住んだ。独特のタッチで、「絵で社会を変えよう」と戦前から社会批判を込めた作品も発表し続け、「画壇のアウトサイダー」と呼ばれた。
 名古屋タイムズとは昭和21年5月の創刊当初からかかわりがあった。名タイでは5月21日の創刊号から地元ゆかりの画家による連載が始まった。7人の画家が名古屋の街に飛び出して、担当の地域をスケッチし短文を寄せるという企画。北川は大曽根を歩き、2枚のスケッチを描いて同月29日掲載された。その文章は以下の通り。ややシニカルではあるが、人と自然の生命力を信じる姿勢があった。

 <中味は問わず、外見だけは一応品物をそろえた俄づくりの店が、市民の窮状をも尻目にいち早く出来上がった。終戦前にはもう絶対に買えない…と思い込んでいたはずの品物が、いくらも現れた。(中略)大曽根当たりの焼け跡にも、いとささやかな簡易住宅が出来はじめた。と見る間に、おお、麦の穂の洪水は地上一面を覆い、ちっぽけで無気力な人間の努力を一飲みに飲み込もうとしている。だが、そこにはまた、雲雀の歌を聞きながら、シシと荒れ地を耕す名古屋市民もいる>

●図画を通して、児童の精神によびかける

 昭和24年8月、北川は名古屋タイムズが東山動物園を会場に開催した夏期児童美術学校の校長となった。8月の1か月間、日曜日を除く午前10時~午後4時、子どもらに絵画や版画を指導した。北川は名タイに「きっと幼い美術家として世の中をあっといわせるような子どもを作りあげてみせます」とコメントを寄せた。
 そこには、どのような思いがあったのか。期間中、北川は「児童画に就いて」と題したコラムを名タイに書いている。

<我が国の普通の児童画は、大きな欠点を持っている。どうも明瞭さが足りない、型にはまりすぎている、陰気臭い、そして何か暴力的なところがある。むろんこれは、外国のよき児童画といわれるものに比較しての話であるが、私どもは常に我が国の児童画を、世界的な水準に持っていきたいとねがっているのである>

<児童の画は、彼らの生活の反映だから生活全体を改善しなければ、真実によくはなれそうもない。だが、児童生活の改善ということになると問題は大きい>

 だが、「そこに一つの道を考えることができる」として北川は可能性を見出す。

<図画を通して、児童の精神に呼びかけ、彼らの生活態度を改善させる方法である。これはできそうなことであり、また事実世界の進歩した教育家はこういう連想から出発してすばらしい成果を収めている>

そして具体的な方法を情熱をもってこう記す。

<今までのように児童に絶対命令で描かせているようではダメだ。美しい場所や美しい物を先生が指定してはいけない。児童はその物や場所や事実に興味を起こし愛情を持てば自然にそれが美しくなってきて、画になってあらわされるようになるのであるから、興味と愛情とが見いだされるように指導されなければならない。本当のいい先生とはいつでも生徒の精神を、物を学びとることができるように生き生きとさせることに成功する人のことである>

<元来普通の児童なら、新しい知識にうえており、新しい感動を求めている。だが、この求める心、創造的な精神はいろんな困難な事情の下に閉じ込められ捻じ曲げられて終わっている。なかなか困難な仕事ではあるが先生は児童の精神をこの抑圧から解放してやり自由にしてやればいいのである>

 この教室は翌25年8月も行われたが、その年限りとなり北川の試みは道半ばでとん挫した。


次回の名古屋・戦後意外史は
 <半世紀前は「エクソシスト」と「エマニエル夫人」の年だった~昭和49(1974)年>
お楽しみに

◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 まとめ読み】🔽

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