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◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その17】<バニーガールもいた名鉄レジャック~昭和47年11月15日>

●「白い街」の「白い館」

 名古屋駅前の商業ビル「名鉄レジャック」は令和5年3月末で営業を終了した。同ビルは昭和47年11月15日にオープン、若者やビジネスパーソンに数々のエンターテインメントを提供した。同ビルの開業時を振り返ってみよう。
 開業時の同ビルは地上8階、地下2階で名称は「メイテツレジャック」。当時、名駅前には名鉄百貨店、近鉄ビル、豊田ビルなどショッピングと食事、映画の施設には事欠かなかったが、サウナやボウリング場などレジャー施設をそろえた「レジャック」は斬新だった。
 キャッチフレーズは「白い館」。当時、石原裕次郎が名古屋の街名を織り込んだ歌「白い街」が、名古屋の代名詞。「白い街」には「白い館」というわけで、ビル全体を白いタイルで外装、外が見えるガラス張りのエレベーターを採用。開業を前にした完成式には桑原幹根愛知県知事(当時)ら約1000人が出席、三原綱木・田代みどり夫妻、由美かおるらタレントが1日店長を務めて来店者に愛嬌をふりまいた。

●サウナ、ボウリング場、テレビスタジオ…

 総工費27億円、延べ1万5392平方㍍。地下2階は駐車場で、地下1階はすし店やラーメン店、喫茶店などレストランが並んだ。3階が女性美容サウナと中京テレビのスタジオなど、4階は全フロアが男性サウナで「スチームサウナ」「低温サウナ」「高温サウナ」があり、プールサイドの人工芝にはゴルフのパターやトレーニング器具をそろえるという気の配りよう。
 5~7階は最新マシンを導入したボウリング場「レジャックスカイボウル」。5階がファミリー向けで、6階は中級・上級者の練習や団体・グループの大会向け、7階はデラックスなムードの中で女性インストラクターによるコーチを受けることができた。
 8階はエレベーターを降りると憩いの森をイメージしたパブ「サンセブン」。劇場並みのワイドステージがあり人気歌手のショーを見ながら食事を楽しめた。また世界各地の観光名所を映像で紹介するトラベルコーナーやダンスフロアも。オープニングではダニエル・ビダルらのショーがあり、ファッションショーが連日繰り広げられた。

●バニーガール登場

 ところで、前期高齢者目前の筆者が、「レジャック」で思い出すのはバニーガールだ。名古屋タイムズによると、「レジャック」にバニーガールが登場したのは昭和50年5月9日。ビルのオープンから2年半後のことである。8階フロアに「パブロイヤル」が誕生。ここにバニーガール登場した。

 <目あてのバニーちゃんがいたら料理を注文するもよし、水割りをこしらえてもらうもよし。ただし「横にすわれ」とか「酒を飲め」などというのは“ルール違反”。彼女たちは、バーやクラブのホステスじゃないんだから「そんなことをすると叱られるの」だそうだ>

(昭和50年6月7日、名古屋タイムズより)

 ちなみに「バニーガール」はアメリカの成人雑誌「PLAYBOY」の企画で運営された高級クラブ「プレイボーイクラブ」のウエイトレスの衣装として考案されたもので、1960年に登場している。
 ウィキペディアによれば、日本では昭和41年に東京・赤坂のナイトクラブでバニーガールの接客を取り入れたとあるが、名古屋タイムズによると昭和40年秋にはすでに名古屋・栄のキャバレーが導入、各店がこれをまねするようになった。名古屋市内のキャバレーではホステスの仕事を補助するため、玄関からボックスまで客を案内して飲み物やホステスの指名を聞くアルバイト女性がいた。彼女たちは「フラワーガール」と呼ばれたが、アメリカの「プレイボーイクラブ」の影響で、バニーガールの格好をさせるようになったという。
 若くてかわいいグラマーな女性を採用したため、客の中にはホステスよりバニーガールを付けないと駄々をこねるやからも。
 名古屋に「プレイボーイクラブ」が上陸したのは昭和54年7月。場所は千種区今池。日本では東京、大阪に次いで3番目で会員制など全世界共通のシステムだった。


次回の名古屋・戦後意外史は
<グアム島の生き残り日本兵・横井庄一さんの結婚~昭和47年11月3日>
お楽しみに

◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 まとめ読み】🔽

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