◉昭和100年記念【名古屋・戦後意外史 その8】<東山動物園・カリスマ園長と「象列車」(昭和24年)>
●サーカスの象にひとめぼれ
名古屋の東山動物園の初代園長・北王英一氏(1900―1993)は名古屋の戦後史に欠かせないカリスマ園長だった。その功績を振り返ってみた。
京都出身の北王氏は大正12年に大阪・天王寺動物園から当時、鶴舞公園にあった市立名古屋動物園に獣医技師として着任。昭和2年に園長に就任した。最初の大仕事は同動物園を現在地の東山丘陵地に移転させるプロジェクトだった。
同動物園の移転は昭和10年に大岩勇夫市長の決断で決まったが、当時の東山地区は山間の田園地帯。市会は「一人の入園者も来ないぞ」と猛反対して動物園側を追及したが、34歳の北王園長は「とんでもない。入園者は門前市をなしますよ」とたんかを切った。大引越し作戦の末に昭和12年に開園するが、ライオンなどの展示は日本で初めて無柵式の放飼場を採用した。「もし、ライオンが濠を飛び越えたら私の責任と覚悟しましたよ」と北王氏は昭和27年3月、名古屋タイムズの取材に答えている。
東山で開園まもなく、東区東新町で木下サーカスが公演した。北王氏は「芸のうまい4頭の象がいる」という噂を耳にする。「行ってみるとずらりと並んだ姿は壮観で芸もうまい。当時東山には象は1頭しかいませんでした。4頭を見るなり、ほしいと思った」(昭和42年1月3日付け名タイ記事)。以下は同記事より。
心を動かされた木下団長は「値段はいくらでもいいから4頭を全部引き取ってくれ。2頭ずつ引き離すと象がかわいそうだ」と提案、結局4頭を買うことになった。
●戦火をくぐり子どものアイドルに
こうして東山の象は計5頭となったが、もともと動物園にいた「生え抜き」の象・花子は「木下組」からのけ者にされた末に昭和14年に結核で死亡。だが、残された「木下組」の4頭も戦争で苦難の道を歩む。戦前戦後と象を担当した飼育員の安藤治助氏は昭和24年4月、名タイの取材にこう話している。
残った象だけは生かしたいと北王氏は軍の「殺せ殺せ」という命令に言い逃れ続け、安藤氏は象舎の前にあった軍用倉庫からキビを持ち出してやせこけた象に与え続けた。こうして生き残った象がエルドとマカニー。終戦時、全国の動物園で生き残ったのはこの2頭だけとあって、昭和21年末に松竹が2頭を出演させた映画「象を喰った連中」を制作。翌年2月に公開、東山の象は全国に知れ渡った。
昭和24年5月には東京都の子ども議会が上野動物園に1頭貸してほしいと決議。代表を名古屋に送り込んだ。以下は名タイ記事。
その後、国鉄の名案で「象列車」がつくられ、東京など全国の子どもたちが東山を訪れるのであった。
北王氏は東山動物園の将来構想について昭和27年3月11日付け名タイでこう話した。「完全無柵式立体動物園。観客と動物の間は流れる小川で隔て、観客はらせん状に丘をのぼりながら眼下に自然生息する動物を見るわけです」
先見の明であった。
終
次回の名古屋・戦後意外史は
<名古屋まつりのひな型、知られざる名古屋商工祭(昭和29年10月)>
お楽しみに
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