人間がわからないのに、社会に適応できるわけがないだろう。

私は近いうちに無職になる。
そこで、私が社会人として数年生活することにより得られた感慨を共有しようと思う。
これは世俗へのアンチテーゼを喚起するようなものではなく、私を苦しめつづける社会というものがどう言うものなのかを解説するというのが主旨だ。
本文を通して、多くの人間の目に映る私は軟弱者なのだろう。
しかし、俯瞰してみるとどうなるか。
そこには、愚痴を書き殴る軟弱者とそれを見ている軟弱者がいる以外には、何もない。
それもまた社会である。

私は数字にとても弱い。
これは自他ともに認めるところである。
私には貯金する能力が欠如しているらしく、先月などは給料日から8日経過した時点で口座に66円しかなかった。
そんな私であるため、退職金や賞与を考慮しても1年後の今頃には文無しだろう。
従って。
1年後の今頃に所得がない場合は生活保護の受給を申請することを決めた。
ここから先は、軟弱な人間の視点から社会を説明することで、一般に言うところの普通というものが如何に高いレベルで設定されているのかを理解してもらおう。


社会の構成員について

人類を二分するならばどのように分けるか。
愚にもつかない話だ。
しかし、主張の簡素化のためにも私の解釈における、この手の問いに対する最も適切な回答を紹介しておく。
それは、死を受け入れている人間と、そうでない人間だ。
当然だが、人類の大半は前者である。
便宜上、凡百と呼ぶことにする。
ほとんどの人間がこれに該当するため、どの人間も大抵同じ形であり、同じことを考え、同じ様に死んでいく。
彼らには尋常じゃないホメオスタシスが備わっており、普通でいるということに精力のリソースを全ベットして生きている。
つまり、彼らにとって生きていると言うことは、死んでいない状態のことを指すと言えるだろう。

後者は凡百には理解できないため、狂人の烙印を押されているように思う。
便宜上、狂人と呼ぶことにする。
何らかの魅力がなければすぐ、畏怖の対象である。
人生が短すぎることを知ると同時に、永遠の命に価値がないことも確信しているだろう。
つまり、彼らにとって生きていると言うことは、無ではない状態のことを指すと言えるだろう。


人間はどうやら、100年生きられる個体の方が、そうでない方より少ないらしい。
私は100年生きたことがないうえ、人が死ぬ様など見たことがないため、眉唾だが。
普通の社会人というもの、凡百について、より仔細に語ろう。
まず、彼らの誰もが20代の頃から、30代くらいで結婚し子を設け、65歳で定年退職し隠居する未来を、一切の疑いなしに持ち続けていると思われる。
彼らは国民年金機構に少なくない金額を納め続けていることに関して疑問を持ったことなどないのだろう。

勤務先というのは、ただ生活の糧を得るために通うものであるはずだ。
出社を要する勤務形態など、地獄でしかない。
しかし、出張の際は単身赴任、出向ならば引越しまでする。
それに、引越しをしたくなっても会社の近くから離れることはできないだろう。
生活の糧を得るためだけに犠牲にしているものが多すぎるということに、彼らはまるで気づいていないのだ。
それに、大抵の会社では定められた時刻の間は仕事をする必要があるため、睡眠のサイクルや飲酒のタイミングまでいちいち会社を意識しなければならない。
それに、通勤時間というのは勤務時間に入らない。
昼休みだって、会社にいるために家ほど好きなことはできない。
仕事帰りは疲れていて、趣味など手がつかない場合だって多い。
それを今後一生続けるということがどういうことなのか、おそらく彼らは考えたことがないのだろう。

彼らの大半は普通にアホだが、賢い人間も山のように存在する。
後者は大抵の物事に関して知見があり、そのうえで考えても意味のないことは考えないでいられる。
おそらく彼らは人類で最も幸福な部類に入るだろう。

人間は30代になる頃に、男はおじさん、女はおばさんというものに変態するらしい。
それには明確な規則はないが、変態の時期を過ぎても変態できていないと普通ではないらしく、腫れ物の様に扱われるのだ。
アスリートの様に心身を鍛え続ける毎日と、デスクワークで心身を壊し続ける毎日はどの程度同一視できるのだろうか。
一定の時間が経てば皆おじさんやおばさんということなのだろうか。
人間は、自分の人生の長さを知っているのではなく、自分の人生の長さを見積りに合わせる様に生きるために、およそ80歳程度で死ぬのではないだろうか。


次は狂人について語る番だ。
狂人というのは、一人一人がしっかりと狂っている。
先ほど人類を凡百と狂人に分けたが、凡百と狂人Aと狂人Bと…といった様な分類が正しいと思われる。
狂人が狂人たる所以は、およそわからない。
行動に現れる奇行というもの、凡百でも狂っていると理解できるものというのは、彼らを構成するほんの一部分であり、氷山の一角に過ぎないだろう。
凡百ではないということ以外のことは、何もわからないのだ。

ただし、一つだけ確度の高そうな推論を挙げることはできる。
およそ狂人はみな孤独を自認していると思われる。
そもそも人間は意志の疎通のために、主に視覚と聴覚を用いる。
視覚ならば、表情や仕草で。
聴覚ならば、声で。
それらは彼らのどこかにあるものをこねくり回して複雑な神経系を通り、アクチュエータにより出力され、空気の層を経由して相手に伝わる。
伝わる際も、出力の逆のような機序だろう。
つまり、自分と相手が共感していると解釈することは可能だが、共感できているかはお互いわからないのだ。
凡百はそれでも共感し、普通のネットワークをより深いものにしていく。
狂人というのは、それを疑ったまま生きているはずなのだ。
自分のことを本当に理解できる人間など、一人として存在していないのだと。


資本主義における会社の存在意義について

殊更だが、衣食住に関係のない製品というのは全て嗜好品である。
資本主義をとる以上は仕方がないことなのだが、全国民が働かずに生活できるリソースがあったとしても、消費行動をしなければ人類は絶滅するだろう。
隣人に消費行動をしてもらうための元手を与えるために、隣人の勤める企業の製品を買ってやる必要がある。
つまり、経済活動に関わるほぼ全ての人間が職を持つ必要があるのだ。
これが、非常にマズい。
なぜならば、衣食住だけでは需要が低く、職につけない人間が山のように現れるからだ。
そこで、嗜好品を売りつけて銭を得ようとする輩が出現するようになる。
これにより生まれたのがスマホであったり、車であったりするのだ。
わかりにくくなってしまったため補足をしておくと、便利なものを作ることが悪いといっている訳ではなく、銭を得ることが第一という認識がマズいといっているのだ。
銭を得るために製品を作るのであって、楽しさを提供することなど副産物に過ぎないのだ。

顔を上げ、周りを見渡してみる。
この様に本来人間に必要なものなど限りなく少ないのだ。
そして、私も取るに足らない産業廃棄物の製造に手を貸している代わりに、経済活動に参加するための紙切れを貰っている人間の一人だ。
世の中の企業では、産業廃棄物を製造するだけの会社だというのに、社会人についての格率や仕事の哲学を叩き込まれるようだ。
そして、産業廃棄物の製造によりストレスを溜め込んだ社会人に向けてのサービスも山の様にある。
つまり、衣食住に関連する業務を行っている企業の労働者に対価を支払うために、その他大勢の労働者が産業廃棄物を製造したり、慰め合ったりしているのだ。
もし人類を籠絡したいという宇宙人がいるのであれば、衣食住を無償で提供すると効果的だろうと思われる。
おそらく集団で抵抗を見せるのは最初の100年ほどであり、それ以降は自ら尻尾を振るようになるだろう。
因みに、人類にはすでに尻尾がなくなっている。


功績の意義について

人間というのは、老衰が目前になるまでの間は、誰かに褒められることを第一に生きているように思えてならない。
自分が褒められていると認識するだけで、活力が生まれるらしい。
これに関しては、褒めている側の人間に対して特別な条件はないようだ。
特にSNSでは匿名性が非常に高いため、画面の向こうに人がいるのかどうかもわからない。
しかし、顔も知らない人間から褒められたいがために、青春を汚す人間もいると聞く。
褒めるというものは、まるで魔術のようであると思ってしまう。
例えば、「すごいね」も「キモい」もほぼ同じくらいのエネルギーコストで出力されると思われるのにもかかわらず、人間の幸福度という観点においてのリターンが非常に大きい。
喜んでも怒っても、感情の起伏の程度は同じの様にもとれるが、万人が喜ぶ方を好むようだ。
怒ることが好きな人間というのは、目にしたことがない。
そんな人間がいるとしたら、狂人だろう。

だいぶ話が逸れてしまったため、本題に戻そう。
功績というものは人間社会でしか使い道がない。
しかし、多くの人間はなんらかの功績を得るために努力をするようだ。
産業廃棄物を製造している会社だとしても、大企業の役員に就任するという功績を持っている人間というのは、私は人間として格が違うのだとでも言いたげである。
偏見だが。

なぜ人間が功績を求めるのかというと、それは褒められたいからに他ならないだろう。
人生を振り返ってみよう。
小さい頃は親に褒められることこそが最上級の喜びであるのだが、成長するにつれて学校の先生や尊敬する教授に褒められるようになり、自分が寄せる尊敬の度合いと褒められることによる快感がおおよそ比例していることに気が付く。
そのようにして、誰が見ても直覚的にわかりやすい形となった功績というものを求めるようになる。
(中略)
功績というのは成果に対して贈られる付随物であり、功績のための成果というのは、産業廃棄物であるのだ。
(以下略)

とまぁ、偉大な人物に認められたり、大企業の役員になれたりするのはよいとしても、SNSのように人間かどうかもわからないアカウントからのコメントで喜べてしまうとは、本当に幸せな生き物である。
正直な話、今日の様に眠れない時の私は、彼らがすこし羨ましく思える。


悦楽について

凡百の娯楽というものは、大まかに二分されるだろう。
これはおそらく二分できる。
一つは、人間が作ったもので遊ぶというものだ。
世の中の大抵の娯楽はこれに該当する。
もう一つは、人間で遊ぶというものだ。
頭がキレる凡百は、娯楽を考えることが得意なようだ。
ということで、世界的に遊ばれている遊びが、政治だ。
これは俗にいう政治家による政治に限った話ではなく、様々なものに関わる政治、まさに政だ。
卑近な例で言うと、国会議員総選挙だったり、マスコミの情報操作だったりがこれに当たる。
この遊びの勝者は、多くの利を獲得した者であるようだ。
ほとんどの遊びに通底しているのは、判断能力のない有象無象を、いかに自分たちの情報統治下に抱き込むかということだ。
これに関しては、楽しさがわからないでもない。
判断力のない有象無象に讃頌されることに関しては何も思わないだろうが、頭がキレるもの同士の対決であるのなら、勝つことによる楽しみもあるだろう。
時には陣取りゲームもいいだろう。
要素としてはスマホゲームでも網羅されているように感じられるが、設定がより多く複雑な戦術で相手を打ち負かすことができた時には、堪らなく快感が湧き上がることだろう。
まぁ、目的は一切わからないが。

終わりに

いや、そんな話がしたい訳ではないということに気がついた。
眠れぬ勢いで5時間ノンストップで書いているため、気にしないでほしい。
私が主張したいのはなぜ人間が生きていけるのかがわからないということだ。
(以下省略)


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