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かかあ天下と富岡製糸場 Vol.1

大型連休も終わり、6月は祝日が無い…とちょっとしょんぼりしています(笑)
5月の連休は、足利ではあの有名な足利フラワーパークの大藤棚を見る人で賑わっていたみたいですね。私は近くを通っただけですが、道路が混雑していて、いつか行ってみたいなと改めて思いました。そして5月末まではバラが見頃だったようで、500品種、2,500株のバラがあるとのこと…500品種もあるんですね~!きれいなお花を見ながらのお散歩は心も体もリフレッシュで良い気分転換ですね。
 


画像は「あしかがフラワーパーク」公式サイトより転載


 
さて今回は、足利銘仙の広告・宣伝についてのお話が一段落したので、一旦違う角度からのお話もしてみようと思い、足利銘仙に出会ったことで理解した『かかあ天下』と富岡製糸場についてです。
 
北関東への転勤が決まったときに、北関東について調べてみました。そこで気になった『かかあ天下』という県民性です。テレビ等でも耳にすることのあった言葉ですが、恥ずかしながら言葉のイメージだけで詳しくは知りませんでした。女の人が強いのかな、少し怖いかも…というのが正直な感想でした。
そして越してきて、足利銘仙に出会い、北関東の絹産業について少しずつ理解を深める過程で、ようやくかかあ天下の本当の意味を知りました。
 
『かかあ天下』とは、妻の権威や権力、威厳が夫を上回っている家庭指します。かつて上州と呼ばれた群馬県は古くから養蚕業、絹産業の盛んな地域として、女性が養蚕、製糸、織物といった絹産業の担い手でした。その結果、男性よりも高い経済力を誇り家計を支え、これが上州名物とも言われたことが所以です。
今のようなジェンダーレスの世界ではなく、男性中心の社会において、女性が社会も家庭も、そして今にも残る産業やそれらの文化の中心であったということは、女性の社会進出の先駆けの一部とも言えるのではないでしょうか。
 
足利銘仙の足利は栃木県ですが、群馬の絹産業でも有名な、そして同じく銘仙もある伊勢崎や桐生等と近隣で織物で栄えた街です。それぞれの特色や細かな違いはあっても、同じような社会背景があったのかなと思いました。
私もこの辺りで用事を済ませることも多く、足利で病院、そのついでに群馬で買い物といったように両県に渡り生活しているくらい、とても行き来がしやすい場所です。
 



次に富岡製糸場についてお話したいと思います。
群馬県富岡市は群馬県の南西部に位置し、古くから養蚕が盛んな地域でした。そして明治初期になると、生糸輸出に近代国家建設の活路を見出した政府が、西洋の先進技術を導入して器械製糸のモデル工場として富岡製糸場を設立しました。世界遺産でもある富岡製糸場は、140年以上前に作られた建造物群が、当時の姿を残したまま良好な状態で保存されており、富岡製糸場に匹敵する近代的製糸工場は現存しません。
 
私も今年に入ってから行ってきましたが、歴史を学ぶと同時に現存する実際の建物を目で見て肌で感じて、当時の風景をこれまでに得た知識で補いながら想像し、とても良い時間でした。
 
そして、この富岡製糸場では多くの女性が働き日本の生糸輸出を支えていました。近代的な大工場で働くという女性の新しいライフスタイルの始まりとも言えるそうです。
全国から工女を募集し器械製糸の技術を習得させ、そして製糸技術を習得した工女たちは故郷へ帰り指導者となり、日本各地に建設された製糸工場に新技術を伝播させました。また、影響は国内に留まらず、工女たちが製した生糸は欧米に輸出され「トミオカシルク」の名を高めることに成功しました。工女たちが日々研鑽した時間があることで、日本の生糸は更なる価値を生み出し、その文化をも国際的に築いたと言えるでしょう。
 
女性が当時働いていたときの服装の変遷も展示がありましたが、移り変わりの変化を通して、私は当時の美的思考や社会の変化についても想像を膨らませてみました。作業内容を考慮して、女性が袴を身に付ける習慣がない時代であっても、馬乗り袴と呼ばれるズボンのように二股に割れた構造の袴を着用していた時代もあったようです。当時の女性の服装は、着物で袖の長い袂は作業には不向き、また椅子に座っての作業のため、着物の裾から脚が露出する恐れもあり、男性用の袴を着用するようになったと考えられるとのこと。夏だから、好きな格好だから~と言って足を出せる時代ではなく、まだ女性が好きに自由にオシャレを楽しめる時代では無かったのですね。
また、西洋の先進的技術を導入し指導者も外国人だった影響か、西洋の影響が強く出ている服装もありました。
 
そして、富岡市に実際行って知ることができたのですが、富岡製糸場だけで生糸輸出が発展したのではなく、上質な生糸を生成する為に上質な蚕を育て通年で供給できるようにした人々もいたことを始めて知りました。上質な蚕があって、上質な生糸ができ、ようやく上質な織物ができる、どこかひとつでも欠けてはいけませんね。そして、それぞれが切磋琢磨し成長することで、より良い絹や生糸、織物が誕生したのでしょう。
絹産業で栄えた北関東の地には、女性の歴史が沢山あることをここからも理解できました。