自分を嫌いにならないで
あー、なんだかなぁと言うことはやっぱりある。
なんとなくチクチク胸が痛かったり、昼間注意されたことを思い出したり、今日も〜しようと思ってたのに出来なかった、メイク落とさず風呂も入らず寝ちゃった、などなど、、、。
この世には、そして己の行動にはどうしたって自分を嫌いになるような要因も含まれている。
だって人間は完璧じゃないから。
特に私の抱えている(はずであろう)ADHDや愛着障害持ちであったりすると、これまたさらに難しい。
さらに完璧とは程遠く、おっちょこちょいになるからだ。
でも。でもでもでも。
欠けてるものが沢山あるから普通になれないんだと思ってやしないだろうか。
違う。きっと違う。圧倒的違う。
欠けてるものなんて一つもありゃしない。
いや違う。例えば普通の貌から少し変わっていたって、お目目が一つ無くたって、手が傾いてついてたって、全体的に傾いてたって、頑張って立たせようとしても自立しなかったり。そんなとこも含めて自分という愛らしいぬいぐるみなのだ、きっと。
個性なのだ。
買ったぬいぐるみの顔が多少歪んでてもまあ可愛いからいっかと放置するだろう。まあそういうことだ。
自分以外はそんな小さな歪みなんて気にしちゃいないんだ。
世の中気にしないことが一番なんだ。
もちろん、気にしちゃう繊細な自分すらも愛すってことができるなら良い。
でもそれって、繊細な心でまともに世の中や物事を受け入れた上で、世界に絶望しないということだから、少し骨の折れることだ。
それよか、もうハナから気にしない、私の心の内に入れない、私は私だから気にしない。
この方が防衛線が世界との間に引けて、自分を守りやすいと思うのだ。
だから私は気にしなくなりたいんだ。
向上心とかいうよりかは、自分が自分であるために。
メッセージが返ってこなくたって、私のせいじゃない。相手がたまたま都合が悪かっただけだ。
ちょっと注意されたくらいでへこたれなくていい。
少しずつ進んでいけばいいのだから。
注意されるということは見捨てられてない裏返しだから。
今日決めたことができなくても気にしなくて良い。
たまにはそんな日もあるのだから。
疲れて化粧を落とさず寝てしまっても仕方ない。
仕事で疲れちゃったんだから。今日1日を頑張って生きた証だから、むしろ褒めた方がいいくらい。
化粧を落とさず寝ちゃうくらい頑張った私は偉いんだ。
わかる。
小さい頃から、毒親に叱責されて褒められることなく育ったらこういうふうに受け止めてくれる大人なんて1人もいなかったから、だからわからないよね。
こんな考え方をしても良いんだってことが、私たちにはわからない。
世間のまともがわからないんだ。
でもそれで良いんだ。
むしろそんな困難を今まで乗り越えてきた自分を褒めようじゃないか。
今までそんな苦しみの中今日まできちんと耐えて生きてきた自分は、しこたま偉いし、なんなら適当に生きてるそこら辺の人間よりも偉いんだ。頑張ったんだ。
私はここにいて良いんだ。
私はここにいて良い。
私はここにいる意味がある。
きっと今、この瞬間を生きてることが尊くて、幸せなことなんだ。
もう幸せだけど、もっと幸せになろうよ。
確かに周りは羨ましい。
でもTwitterをやめて、前ほど周りを見てキリキリと心が痛まなくなっていた。
きっと、誰かに監視されている感覚がなくなったからだろう。
私生活を自虐して切り売りするのも良い。
傷ついた人は構ってほしくて、そういう言動をしてしまうものだから。
どうやっても傷が癒えなくて、わかってくれなくたって良いからわかって欲しいんだ。傷がここにあるってことだけでも見てって欲しいんだ。それに耐えたのが自分だから、私のこと、わかってくれなくても私の傷がここにあって、それを抱えて生きてきた私を認識だけでもして欲しいんだ。本当は助けて欲しいんだ。でもそれが無理なのはわかるから、せめて、見てって欲しいんだ。
そんな気持ちの表れだってことも、わかってる。
でも長年それを続けると、私にはあんまり良くなかった。
キズの認知を超えて、いまだに過去に囚われている自分が嫌になったから。
そんな自分をフォロワーたちに見られていることが、
どう頑張ってもままならぬ「普通」の人たちに見られていることが、気持ち悪くて、怖くて、恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしくて、
居ても立っても居られなくなったから。
だから私はTwitterを消した。
でもそうしたら、周りのことばっかり気にしていた時間が消えて、自分と過ごせる時間が長くなった。
映画を見たり、こうやって文章を書いたり、配信を見たり、料理をしたり、運動したり。
頭に氾濫していたテキストが、嘘みたいに半減した。
もう私に知ったかぶりで指図する美容垢や、婚活垢や、インフルエンサー垢や、ちょっと性格の悪いフォロワーや、マウントを取りたいだけの女や、炎上に口出しして何もしてないのにコメンテーター気取りの悲しい人間たちも、もういない。
生きやすくあるためにはこうしろとアドバイスしてくる自称精神論気取りの垢や、恋愛はこうしろと指図する恋愛評論家気取りの垢。
キャリアはこうしろ、脱毛はこうしろ、整形はこうしろ、化粧品はこれを買え、日焼け止めはこれを買え、インフルエンサーの真似をしろ、心が楽になる薬はこれ、体型を気にしろ、年齢とTPOを気にしろ、Twitterで下手なことを呟くな、ネットリテラシーを気にしろ、日本人であることを気にしろ、風呂に入れ、匂いに気を使え、髪型に気を遣え、最低限の教養を身につけよ、字は綺麗に書け、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ…
全部まやかしだったんだ。
あーあ、気持ち悪かった。
私は私であるのに対し、Twitterの有象無象は、ただの電車の中の吊り広告に過ぎなかった。
気持ちの悪い仮想の人間たちに揶揄され呪詛され呪われて縛られて囚われて、
整形したりなんかもした。
別に後悔はしてない。やってよかった面もある。
でも、ずっとそれじゃいけないよね。
自分と過ごして、自分と向き合って、自分を大事にしなきゃ。
でもとりあえず今は、地獄とおさらばできた自分に乾杯。
たまに有象無象が寂しいけど。
でも私は進みたいから。
敬具