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今日は手元にPCがなかった。

言葉について考えることがしばしばある。
このノートの第1回目も、そこから始まっている。
制作に取り掛かろうとするとき、歌詞を書くとき、
自分の中に感じる感覚や見出したい少し先の未来(明日とか1年後とか、それくらいの)を
言葉にしようとするとき。

具現化するという作業は、人に見せたり伝えたいしたいという思いや、後から自分で見返したりすることを念頭におくと、少しくらいは整理整頓をされてなければならない気がして、考え過ぎてしまったりする。
それで具現化を諦めてしまったりすることもあるけれど、私は荒削りでもいいと思っている。

私にとって、荒削りでないことは、話のゴールや結論、そういったものへの近道に感じるが、
短絡的だったり、慣用的だったりする言葉を使うとき、その言葉に一度立ち止まって考えたり、感じたり、想像を巡らす感覚を忘れてしまいそうになる。

本当に伝えたいとき、本当に考えたいとき、
私は言葉を初めて扱うような気持ちでいたくなる。
結果的にすっごく伝え方が下手になってしまうことが多い気もするんだけど、
だれかの話を受け止めるとき、
じぶんの考えに向き合いたいとき、
そういうスタンスを忘れたくないと思っている。

荒削りでいたい。
私の中で新しい言葉の価値観が生まれる原動力をストップさせないために。
どんなときもハッと驚き、感動したい。

今日は手元にPCも本もなく、スマホしかなかったのでスマホを置いてコーヒー飲んでたら
ぼんやりと制作のことを考え始めて、
歌詞書かなきゃなぁと思い始めて、
気づいたら言葉についてまた考えていた。

普段ぼんやり大切に思っていることって、ノーマルでデフォルトでベーシックで大切にしていることだから、改めてこうやって記すことが少ない。

私の制作のスタート。
脳CPUコアがグルングルン音を立てて回転しはじめる音が聞こえてくるまで、もったいぶらずに言葉をつむぐ。

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