土着的ということ
私は土着的な文化に惹かれる。
言葉によって伝承される食事や歴史、
動きによって伝承される土地ごとの踊りや仕草。
特に踊りは言葉でなく、言葉でなく動きとして伝わっているだけに、先人たちがその肉体を通して伝えていったものだとダイレクトに感じることができ、とても生々しく感じる。
踊りの種類にも色々あるが、大抵は五穀豊穣や
土地の神への捧げもの、そして霊への鎮魂歌みたいな結構スピリチュアルなテーマが多いように思う。
土着的なものとしては、食事もそうだと思う。
地方の名産物や素朴な名物を使った料理(福島のこづゆや、熊本の出汁、沖縄のチャンプルーなど)は、味=舌によって、こちらも身体的に伝承されてきた。
キーワードは、伝承されるほど大切にされた価値観や文化。それが土着的ということなのだろうか。
私は今の国を作ってきた古くからの歴史や史跡、そういうものも大好き。歴史ファンの間で衰えな人気を放つ「幕末」についてももちろん、本当に好き。
幕末が人々の心を離さないのはなぜか。
ドラマや本でも数多く描かれ、史実に関する書籍も相当多い。
なぜそこまで人が惹かれるのか。
有名な志士が活躍したからか?
歴史の移り変わりに対する関心はいつの世も人を魅了するのだろうか。
当時を生き、今に名前が伝わるような志士たちは、それぞれの正義に身を委ね、命を使い切っていった。なぜ、そんなことが分かるのか。
こちらもやはり伝承によるものが多いと感じる。時世の句、言い伝え、リアルタイムで誰かが編纂した史実書。現代ではそういったものを組み合わせて、かの時代の人物たちを立体的にしていく。
時代背景、人と人の繋がり、当時の文化などが浮かび上がり、そういうことになるのかな。
自由だった山々が人の介入によって切り分けられる領地争いが起き、なるべく多くの領地を持つものが優れている、良いとされた時代。「天下をとる」。才のあるものなら、それが例え「由緒正しい」侍や大名の子孫でなくともリーダーになる可能性が満ちていた時代。戦国時代だ。調略や戦を重ね、天下をとり、太平を作ること。それが吉とされていたけど、やはり人の心は戦へと向かう。正義の2択はいつの時代も起こるのだ。
徳川が豊臣を打ち負かしたことにより、戦国時代は「終焉」を迎え、新しい時代がはじまる。その終焉に戦は必要であった。なぜなら、豊臣方の正義もまた大きく強いものだったからだ。
何かを変えたい、欲したいと思った時、大きな犠牲を払うのはいつの世も変わらない。正義が二極化してしまうからだからだと私は思う。
豊臣によって江戸への国替え(領地変え)を余儀なくされた徳川家康は江戸を最大イノベーションした。
大名たちが手にしては国替えさせられいた領地は後に藩として成り立ち、各藩が独自の政治を持つ。徳川はそれらの総リーダーとして江戸を拠点とし、150年もの間それを取り仕切ることとなる。ここからが江戸時代。
かつて日本の中心地と言われた京都(天皇が住んでいたこと、秀吉も常にそこにいた)は、大名たちと、賑わいの歴史を残し、新しい政治の中心都は江戸になったのだ。
今も、同じことが起きていると思う。
戦国や江戸と呼ばれた時代の変換期が、人為的にではなく自然という大きな現象によって引き起こされ、人々が変化に対応しようとしている。
と感じる朝でした。
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