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2020年に手紙を書くことについて

2020年という、高度にIT化された時代に、誰も手紙によって自分の気持ちを伝えようなどとは考えぬ時代に、肉親でもない者に、手紙をしたためるのは、もはや非常識にあたるのだろうか?

まず、私個人の経験で言おう。ちょっとbusinesslikeな言い方だけど、「実績ベースでいうと」数回はある。

小学生時代。もともと小学生が恋文を書くなんていうのは、定番中の定番。私も書いた。同じ男の子に2回以上書いている。その男の子は、その手紙をもらって、笑っていただけだった。もはや、私と彼の関係は、ラブレターを送り受け取る仲、としか言いようがなかった。

小学5年生のとき、6年生の男の子にラブレターを送っただけで、逆ギレされて、6年生全員にうわさを流されて、恥ずかしい思いをしたことがあった(心の中では結構喜んでました)
多分、その男の子にしてみれば、もらったことがなくて、実は嬉しかったんだけど、どう表現していいのかわからなくて、相手をからかうという行動に出たんだと思う。
その後、彼が卒業するまで、彼は私のことをよく見てくれていたみたいで、よくからかわれたり、彼のご近所くん経由で、「最近お前のこと◯◯って言ってたよ」なんていう話を聞いていた。

こういうエピソードを思い返すと、子どものすることはまぁ、可愛げがある、で済まされるんだなぁ、子どもは無害と見なされているであろうことが、わかる。
子どもが手紙を書いても、それは微笑ましい行為。愛らしい行動。

そのあと手紙を、しかも長〜い手紙を書いた経験はもっと、ずっと後である。

ドイツで同棲していた彼氏(日本人)の家を出て、ドイツから日本に帰る前日。私は、行きつけのカフェの片隅の席で、縦書き7枚ほどの手紙を、彼に書いた。

当時、私が単独で日本に帰って新しい仕事を探すことに対して、お互いにすれ違うばっかりで、1ヶ月間ほとんどキレられる、傷付けあいの連続だった。何を言っても、通じなかった時期。だからこそ手紙にした。

なぜ私が日本に帰るのか、帰る必要があるのか、彼にどうなって欲しいと私は本心で思っているのか、もっと自信を持って欲しいということ、今の職場ではない別の世界があるということ、この若齢で結婚することの大変さ、そして最後に、彼に対する想い、云々。

カフェで、無我夢中で、書いたことは、今でも忘れられない。
書いている途中で、涙がボロボロ出てきて、人にバレるくらいだった。
ドイツにいた全期間のエピソードが思い起こされ、自分の書いた言葉に感情移入し…
あんなに心の底から涙が出ることも、そう多くはない。

それは、手紙でなければならなかった。対面では絶対に伝わらなかったから。

この手紙一発で、すべてを凝縮させて、全部出さなければならない。かつ、これで伝え切らなくてはいけない。伝え切った上で、相手の心まで響かないと意味がない。
そんな必死さで、驚異の集中力を発揮した。人間、追い詰められると、すごいパワーがみなぎるらしい。

でも、それは私と彼の間の、何年もの関係性があるからこそできた技なのだ。
自然と出てくる言葉があって、それが自然と手紙になった、そんな感じ。
手紙になることは、不自然ではありえなかった。

さて、どうだろう。2020年、手紙を書く人間はいるか?(いて欲しいです)
肉親でない、正直、手紙を書いていい間柄なのかな、みたいな人に手紙を書く人、いるでしょうか?

はたまた、受け取った人は、何を思うことでしょう?
ちなみに前述の元彼は、手紙の内容が素直に通じた、つまり手紙が絶大な威力を発揮した例でした。

私個人の意見ですが、私だったらこのご時世に家のポストに手紙が入っていたとしたら、それが誰からであっても、嬉しくて、大切に保管するでしょう。

なぜなら、一生にあるかないかの経験だからです。年賀状は書けども、手紙を書く者はいない。見たことがない。聞いたこともない。

誰もやらないことをやることは、とっても勇気がいります。
なんの保証もないところに、飛び込んでいく行為。

手紙が重い、と思われるかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。恥ずかしい思いをすることになるし。

そう、誰もがやらなさすぎて、恥ずかしいの。でもきっと、誰かひとり、ちょっと垢抜けた人物が、「手紙書いてみました」とか発言したら、たちまち、火がつくんだわ。

一時期、寄席に行く人なんていなかったけど、今は人気だものね。
そうやって、発掘される古きものもある。

では、手紙は?
私は、誰もやらなくても、たとえ結果的に煙たがられても、誰もやらないことをやる勇気を、手紙で一発勝負をかける勇気を、持ちたい。でも、その勇気は、まだない。

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