木村花さんの訃報を受けて思うこと
※これは1人のファンの考える個人的な意見であり、誰かへの責任を追及したりするためのものではない。
2012年から続く人気番組で世界中にファンも多いテラスハウス。この番組には台本がなく、ただそこには若者達によるキラキラとした等身大の生活が放送されている。
筆者もテラスハウスという番組のファンの一人であり、Netflix更新日には更新時間と共に観るほどだ。
本日、そのテラスハウスの出演者である木村花さんが亡くなった。直前のインスタグラムの内容から原因はSNS等のバッシングによる自殺と推測される。
この悲しみは言葉で表現できるとも思わない。物理的に胸が痛くなるほど、胸が痛い。しかしこの事件によって感じたことを絶対に忘れてはならない。それが今私にできることだと考え記録を残すことにする。
花さんへのバッシングが始まったのは最近のことではない。以前より乱暴な言葉で、見境なく、中傷する人は存在した。それは花さんだけの事ではないし、内容は割愛するが、それは流し見ていただけの私でもまだ覚えているような酷い言葉達である。そしてそのバッシングは花さんの家族へも及んでいた。
ここでまず私が感じていることは、私も中傷をしていた人達と同罪だということである。花さんへの中傷を私は以前よりずっと「知って」いたのだ。言い過ぎだ、酷い、そこまで言わなくても…と心では思ってもそれは一瞬。次の日になれば忘れていた。中傷コメントをする人々に一言反論することも、花さんへの優しい応援のメッセージをすることもなく、「ただ見ている」だけだった。
「見ているだけでも、いじめです。」
何度聞いた言葉だろう。頭の中で鳴り響く。
おそらく中傷コメントをしている人のその衝動は一瞬。しかし、中傷された方は一瞬どころではない。昼夜問わず、頭から離れない。自分を否定され、存在を罪に感じる。生きている意味がない。生きている価値がない。マイナスな意見がまるで世界のすべてのように取り囲み、逃げられない。経験したことがある人には分かるであろうこの恐ろしいループ。どんな人でも陥る可能性はある。身体をナイフでさせば血が出る。傷付いたと分かる。しかし心はどうだ。どんなに刺しても血は目に見えない。身体の傷と同じように血は流れ続けている。そして出血大量になった時、心も死んでしまうのだ。
人間は過去に学ぶことしかできない。しかし、それは言い換えれば過去を通して学ぶことができる。
一度放った言葉は、後からどれだけ否定しようと消えない。亡くなった人は生き返らない。あの笑顔の可愛い花さんはもう戻ってこない。誰かの尖った言葉は意図せずとも簡単に人の命を奪う。
そうなる前に、想像しよう。
自分の発する言葉、行動が、一体何を引き起こすか。誰を励まし、愛を与え、傷付け、殺すのか。それが自分だったら、自分の最愛の人だったら、誰かの大切な人だったら。どれだけの人が、どんな思いをするのか。
想像しよう。二度とこのようなことが起きないように。
心より花さんのご冥福をお祈りいたします。
活力になります。