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靴を手に入れた日〜発達育児しつつ、歩き出そうと思った日~

----無我夢中で家族のケアワークに取り組むうち、自分が好きな自分はいつしか不在になっていた。

平日は朝5時起床で早朝パート、そのあとは家に帰って家族の朝ごはんを用意する。朝食を食べ終えて、すぐに出勤する夫を見送ると、今度は「過酷な成長時期」と評される2歳~3歳の多動っ気ある発達っ子のワンオペ育児と最低限しかできない家事が待っている。

時間にして12時間、単発のベビーシッターなら日給約2万円相当の仕事である―――


コロナ禍で土日に細々と続けていた仕事を失い、毎日毎日途切れ目無く息をしているうちに、気付けば私の知らない私が出来上がっていた。
まず鏡を覗くと見えるのは、目の下にクマが浮き出た不健康そうなおばちゃんである。
首から下は…というと、妊娠前から着ているよれよれカットソーに、近所の古着屋で適当に買ってきたワイドパンツ。足元は走り回る子どもを捕まえるのに必須の「滑り止め付き防水スニーカー」…という、「いかにも臨戦態勢な出で立ち」である。

というのも、体重が平均よりもかなり重めの息子を伴っての生活では、繊細な生地や作りの洋服や、女性もののパンプスなど身につけられたものではなかったからだ。

幼稚園のプレ教室へ行けば着席を拒否して大暴れし、公園へ行けば全身砂まみれ、スーパーはというと急な尿意を訴えてトイレへ駆け込むなど枚挙にいとまない慌ただしさが常にあったからだ。
靴はそれらの慌ただしさを全て円滑に、失敗なく処理するための育児の要の存在だったのだ。

そして要に在るだけあって、その破損率たるや恐ろしいものだった。1歳半から2歳半頃迄は大体一日約3km外を歩き続けた。加えて公園でも中々集中して遊ぶ事が出来ず、ずっと歩き回り、彼の危険回避の為に足に力を入れて踏ん張ったりした。

そんなふうに毎日毎日あまりにも歩き過ぎて、だいたい半年待たずに自分のメインスニーカーは潰れていった。

その戦い疲れて汚れていく靴を毎日見ていると、高いお金を掛けて手に入れたお気に入りの靴を履いて短期間で潰したり、息子に踏まれて汚されて、怒ることをしたくないと思い始めた。


―――その対処法として、靴を含めて本当に好きなモノから「離れること」にした。
一旦でも離れてしまう様に習慣つけてしまえば、自分自身で納得する態度で振る舞っていれば、どうにか耐えられるかもしれないと思ったからだった。


それはまるで息を止めて水中に潜るかの如く、育児に専念する為の強迫的な態度だった。そうやって育児の深い海に潜っている状態だからと「思い込む」方が、自分の意思を捻じ曲げて苦痛に耐える感覚を感じて過ごすよりも遥かに楽だった。
おそらくは一般に戦場の兵士レベルと言われる、過酷なASD児育児の中で生じる自我由来の要求について、どんな事案であれ一律で思考停止で放置しておけるからだ。

何せ日々の育児の果てしない海を泳げども泳げども、対岸は見えない。
定型児ならばあり得るあの幼稚園がダメならこの幼稚園に・・・などという、一種の灯台的な希望の光の所在すら、ない。
ダメならもう、はっきりいって一家揃ってどうするのかわからない。
そんな状態だったので、11月1日の息子の幼稚園面接で入園許可を頂く迄は、本当にとにかく只管24時間泳ぎ続けるしかなかった。


そうして振る舞ううちに、靴や服などに限らず、身も心の隅々迄がボロボロになっているのにも気が付かなかった。
あまりにもボロボロ過ぎて、もはや自分の意志が隙間から溢れて落ちて、ちょっとした意思決定をするのが辛いと思う事がある程であった。


◇◇◇◇◇◇


そんなぼろぼろでどうしようもなくなっていたある日、実母が偶々仕事休みの日が有って息子の顔を見に駆けつけてくれた。
「どこか好きなお店にでも行ってきな、暫くこの子を見とくよ」
と言って。

急な事だったのでどうしようかと思ったが、息子連れで行き辛いスーパーへ行く前に、少しだけ近所にある古着屋に立ち寄った。

(おしゃれな洋服なんて、今買ってもな。着れないんだよなあ・・・でももしかしたら何かあるのかな・・・・)

お店に入った私は、内心溜息をつきながらふらふらと魂のカケラも感じられない様な足取りでお店の奥までゆっくり眺めて歩いた。
息子を伴っていると、片っ端から商品をいらいこちゃにし、隙間を見つけては忍び込み、それに飽きると「ココハイヤ」とさっさとお気に入りの公園へ向かおうとするのだ。
その忙しない買い物の感覚が身体に染みついてしまっていて、そうでない時間をどう過ごしたら良いのか、どう見回ったらよいのかすっかり忘れていたのだ。


そうして覚束ない足取りながらも、どうにか最奥部の靴コーナーにたどり着いた。
中古品店だからこそ、ごつめのブーツから華奢なピンヒールのミュール迄用途様々な品がにぎやかに並べられている。
その一角に、ブラインドカーテンの隙間から細く差し込む光を受けて静かな光沢を丸みのある表面に浮かべた深緑のポインテッドパンプスが有った。
お値段は半額になってなんと390円、幸いなことに手持ちのお金でどうにかなる金額だった。しかもサイズはぴったりで、歩きやすそうなぺたんこ仕様である。

サテン生地のやわらかく、優美な風合いと靴そのもののフォルムがとても綺麗で、私は思わず手にとって隅々を眺め始めた。特段変わった造りや飾りを伴わず、それでも多動っ気のある子どもと二人きりの普段の生活では到底履けそうもない靴であるけれど、ただ率直に素敵で、好きなものだと思った。

◇◇◇◇◇◇

「素敵で、好きなもの。」
そう感じられる気持ちへの喜び、所有して履きたいと思える温かな高揚感を実感したのはいつぶりだっただろうか。

新品ではなく、少し靴裏が削れた形跡のあるどなたか見知らぬ方のお下がりでも、その気持ちには全く関係なかった。

むしろあくまでも「お下がりの品」であり、とても安価なものだ。だからこそ、もしも息子に汚されて捨てることになってしまったとしても後悔せずに居られるだろう。

まるで強迫観念の深い海に浸かり切って冷え切ってしまったところで、突然暖の取れる小舟に引き上げられてブランケットを手渡されたような感覚であり、これを拒む理由はなかった。



◇◇◇◇◇◇◇

その靴を買ってから、少しづつ少しづつ、離れようと一旦思い込んだ意思を取り戻していこうと思った。
まずは靴と連動して、服をどうにか。
次は大好きなはずの音楽と本を、と。



あの緑のパンプスは、そんな風に前向きに生きる欲求へ気持ちの、一つの象徴的な希望の芽だった。
それを偶々あの日、あの近所のお店---きっと海に浮かぶ岩場のような島のような感覚がする場所---で見つけることが出来たから、深い水に溺れてしまわずに済んだ。
きっと、息継ぎ出来たから助かったのだ。


靴を手に入れてから時間が経つにつれてそう思えてきて、これまでの自分の道ではない道を歩いてみたくなったのだった。




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