私と言葉について
noteを前から始めたいとは思っていた。理由は、誰かに私の書くものを見てもらえるかもしれないから。遥か昔18才の私は、あるきっかけで自分で言葉を綴るようになった。それを続けているうち、自分の中でその行為が目標として明確になってきた。その目標とは「いま、この10代のうちに自分の文章で誰かの心に響くような本を出したい。」ということだった。どうしても19才までには本を出したかった。その頃は実家暮らしだったので、平日は仕事が終わってからの数時間、土日はほぼ一日中書いたり、とにかくそのことばかり考え、生活の多くの時間を費やしていた。出来上がったものを出版社に投稿した。いま思うとどう考えてもぼったくられているのだが、自分でコツコツとためたお金で、その出版社曰く、自費出版より少し上のランクになる共同出版というもので一冊の本を出した。たしか50万くらいで、全部で100冊刷った。半分は出版社が在庫を持ち、半分の50冊が私のところへ送られてきた。いまの自分には50万かけてでもやり遂げたい夢はすぐに思いつかないので、自分のことながらそのまっすぐさに胸を打たれるものがある。いま思えば完全に夢みる純粋な気持ちをうまく利用されて、ぼったくられている。
でも、結果的には本を出せてよかったと思う。自分の持ち分は、読みたいと言ってくれる人に手売りで売ったりしてたので在庫はなくなり、もう売るものはないが、今でもその本は私の手元に2冊だけ残してある。10代の頃のあまりにも悲痛に満ちた繊細かつ鋭利な感性は、見る時間や時期を選びはするが、やはり今でも私の心に刺さる言葉ばかりなのである。今読むと、まるきり自分自身だったものから、自分ではなく一人の少女を見ているような感覚へ変わっているところも大いにあるけれど。そこがまたエモいなと思う。私も年を重ね、当時少女だった私はもう20年も前の話で。その当時の自分を思いだすことはほとんど出来ないが、この時に書いた言葉たちはいまでも空で言えるくらい色濃くあるし、ずっと籠って書いていた実家の自分の部屋も、空気も、窓から見えた空の色も、すぐそこにひろがる。本をひらけば19歳の私にいつでも会えるのだ。これは本当に良かったと思う。
その本をきっかけに毎月詩の朗読会のメンバーとして活動していた時期もあった。多くはないが、私の文章が好きだといってくれるファンもいた。いまだに私が書くのを辛抱強く待ち望んでいてくれる友人もいる。
私が文章を書くきっかけになったのは自分の生い立ちと、父親にあった。色々と理由は複雑にからんではいるが、簡単に言えば、精神的な病で苦しむ、人生を病まずに普通に生きるには、あまりに優しく不器用な父親の生きる希望になるような文章が書けないかと思っていた。世の中にあるどのような娯楽や楽しいとされるもの、そんなものは父の苦しみにはなんの力も持っていないように思えた。悲しいことを悲しいと自分の他にも考えている人がいることは救いになるのではないかと思った。そしてその当時、詳しくは書きたくないが、世の中には自分で選ばずして与えられた業の中で生きていくしかない人間もいて、それは自分の身にも降りかかっていたんだということを知った自分を慰めるためでもあった。
自分の父親や自分のような人間、この世の中にいるそんな人たちの救いになるものが作りたかったのだ。極論、父を救えなければ、誰も救うことなどできないと思っていた。実際、本を出版したとき父は喜んでくれていたし、自分の通院する病院先の友人にも見せたり、その人が「すごくよかった」と本を絶賛していたことも嬉しそうに教えてくれた。あのときは本当に私も嬉しかったのを覚えている。
文章をやめたのもきっかけは父だった。本を出したあともやはり父は何度も病状が悪くなり、入院してずっと家に居ない時も何度もあった。私や兄のことも分からなくなり、母のことしか覚えていないときもあったし、何回か、もう生きるのをやめようとしたりもした。変わらず苦しみ続ける父を見ているうちに、結局自分の創作活動は、ちっぽけで、傲慢な考えで、独りよがりで、自己満足でしかなかったんだと思った。そんな簡単な話なわけがなかった。なんにも変わらないじゃんと思った。それなら父の傍でなにかくだらない話でもして過ごしていたほうが、よかったんじゃないかと思った。でも私は落ちているときの父がどのように声をかけてほしいのかも、どのくらいそっとしておいてほしいのかもわからなかった。父は子煩悩ではなかったので、愛されてはいたと思うが、お互いに距離感が分からずどう接したらいいのか分からないところがあった。文章でならもしかしたら力になれるのかもと、思っていたけど。
もういいや、と本を出して以降も2冊目を出そうと作り続けていた作品を(自分的にはその頃の作品は今でも好きで取り戻せるならいくらでも払いたいくらいである)まとめて家の庭でぜんぶぜんぶ燃やした。当時はもうなんの未練もなかった。それ以降、書くことはやめていたし、芸術全般に積極的に関わるのをやめていた。
その後、父は古巣の顔見知りだらけの馴染みの病院から、医療的に優れた病院に転院して以降、そちらのほうが診療が合っていたからか、大きくバランスを崩すことはなくなった。数年前に母と父ともに癌で亡くなってしまったが、父は最期まで精神的にとても穏やかに過ごせていた。結局父とは文章でなくても、理由はうまく説明できないけど、段々と、自然と分かり合えるようになっていた。10代の頃は、「なんでうちのお父さんは、お父さんらしくないのか」とずっと密かに思っていたことへの父へ罪悪感でいっぱいの心苦しさと、この人を救ってあげたいという相反する気持ちをずっとずっと持っていた。その間でずっとずっと揺れながら育ってきた。父も私も年を取ってきて世の中の色んなことを、柔らかく受け止めれるようになってきたのかもしれない。
自分の中で、そこまでの大きな書く理由を持たなくなった今でも、やっぱり私は本当は文章を書くのが好きで、自分に一番響く作品は自分にしか作れないと、やめてからの20年間もずっとずっと心の底では思っていたし、もう書かないとか言いながら「あーあ、書いたら結構すごいのになあ!」と勘違いしていた。辞めた当時はそうだったかもしれないが、もういまは書かないんじゃなくて書けないんだとちゃんと知ろうとおもう。だからまたあの時のような感覚で書けるようになれるかどうか、まずは練習と思った。とりあえずなんでも良いから書き始めてみることだ。最初からうまくやろうとして手を動かさず、ぼんやりと頭の中に浮かぶものを弄んでいればなんとなくいける気がするけど、気がするだけなのだと知らなければならない。「すごいアイデア浮かんだ!」と思っても書き出すととてもとても陳腐だったりもする。でもいつか誰の言葉でもない自分が生み出した言葉や作品で再び自分の胸を打てることを夢見ていたい。
自分の中で、そこまでの大きな書く理由を持たなくなったと言ったけど、本当はまだ自分を救ってあげたいのだ。自分みたいな人を救ってあげたいのだ。いまもまだ。いつか誰かのお守りになるような作品をつくりたい。