不便に暮らす。命と暮らす。

いまの家に引っ越してきて1年が過ぎようとしている。いまのわたしの家には電子レンジもオーブントースターも炊飯器もTVもない。家具家電といえばエアコン、洗濯機、冷蔵庫、テーブル、ノートパソコンくらい。ベッドも買おう買おうと思いながら、いまだフローリングに敷布団を敷いて寝ている。ラグも買おう買おうと思いながら300円ショップで買ったレジャーシート。その上にぺらぺらの薄いギンガムチェックの布をかけている。フローリング直よりは、視覚的になにかを敷いてる感覚はあるくらいで、正直ほぼ床だ。

不便だとは思うけど、特別便利な生活をしたいとも思わないし、困るというほどでもない。まあ、こんなもんだろ。こんなもんでも別に生きていける、そのくらいの気持ちでいた。

嬉しかろうが悲しかろうが不便だろうが便利だろうが正直どうだってよかった。どんなに辛くても悲しくてもひっくり返らない元に戻らない悲しいことが、わたしをそんな気持ちにさせていた。どんなことでも時間がたてばそれなりに納得するし、慣れてくる。だけどもうこれ以上何かを所有し、失うことすら考えるだけでしんどかった。

きっと物欲と生命力は連動している。わたしはもうなんにも欲しくないし、なんにも求めない。持ち物にも、なによりもう二度と誰にも依存したくなかった。生きていること自体、借りぐらしくらいの気持ちで生きていけたらと思っていた。

ここ数年は本当にただ大切なものたちが失われていくだけの人生を生きているようだった。実際はそんなことはなかったはずで、ちゃんとそこに光はあった。何度も。私はずいぶん長い間、不幸だとうつむいていたから、大事なものをまた失うことでしか気づけなかった。それは分かってはきたけれど、やっぱりまた何かを信じたり、受け入れたり、持ち物や大切にしたいものを増やしたり、新しい生活を歩き出す気になれずにいた。そのまま冬を超え、春が過ぎていった。

そしてちょうどいまから3か月前の夏。ハムスターを飼い始めた。

動物が好きなので、ひとりで生活を始めて物を持たない生活を続けているなかでも、ハムスターと一緒に暮らせることを心のどこかでは夢見ていた。でもそれは物を増やすことよりもずっと重い責任が生じることで、自分ではない命を預かることだから、知識と環境が必要なことはもちろん、なにより覚悟のいることでもあった。寿命の短い生き物を飼う覚悟がなかった。そしてなにより、大切なものがいるということは、またいなくなることの始まりでもある。それが怖かった。

だけど、自分の与えられる限りの時間を、お迎えするその子にしっかり使って、少しでもながく幸せに健康に過ごしてもらう責任と覚悟を決めて、考えて考えて、飼うことにした。それにきっとわたしもずっとこんな風には生きられない。いつかはちゃんと前を向かなくては。その「いつか」を、じゃあいまから始めようと思った。

生後2か月の可愛い女の子をお迎えした。名前はこまにした。
こまの世界には、こまとわたしの2つの魂しかいないし、ここの暮らしがこまの一生になった。


わたしの両親は数年前に病気で亡くなり、実家もいまは売地に出され、帰る家はどこにもない。帰らないのと帰れないのとは全然違う。恋人もいない。世界のどこにも自分を待っている人はいない。その現実はもう若くもない自分の年齢も重なりとてもみじめだった。

お盆は帰省するだとか、今日の晩御飯は何にするだとか、そんな会話を当たり前にできる人たちが羨ましかった。多くの人にとって日常である家族の風景が、キラキラした世界が、自分とはよそ事のようだった。わたしも数年前まではこんな未来があるとは思いもせず、その光のなかにいたのだ。

それでもひとりの気楽さも知っている。寂しさもあるけれど、また大切な人を失ってしまう不安や恐怖にはもう怯えなくて済む。よく眠れるし、時々落ち込んでも、好きなことをして気持ちを持ち上げていく術も身につけた。完全に制覇はしてないし、出来るとも思ってない。ただ孤独とうまく付き合っていけるくらいには慣れたといえる。

自分と等価もしくはそれ以上に大切な人がいなければ、今以上に苦しいことなんてもうこの先ないのだから。苦しいのは過去を振り返った時だけ。過去がまるでいまみたいな顔をして楽しい夢で現れて、覚めた朝だけ。


だけど、こまがやってきた。わたしはまた大切な生きものとともに暮らす決意と覚悟をした。もちろんいつかいなくなる日のことを考える。だけどわたしはその別れの日が来ることもすべて受け止める覚悟をして、こまと暮らすことを選んだ。もちろん少しでもながく一緒に過ごせることを祈りながら。

わたしはもうちゃんと知っている。たとえ数秒のことだって、一生忘れられないかけがえのない時間として、覚えていられることがある。それはいつか過ぎ去ったとしても消えてなくなるわけじゃない。

こまを飼い始めた当初は、初めてハムスターを飼うということもあり、飼育本を熟読するたびに繊細な生き物だということに慄き、ひたすらにこまを生かし、ストレスを取り除き、適温を保ち、環境を整え、安心してもらうため、こまの生活を整えてQOLをあげることだけを考えた。

その間、自分のごはんを食べることを何度も忘れたし、こまのためになるのではないかと思われるすべてのものを手に入れるため、自転車、徒歩、電車、あらゆる方法で炎天下の中、県内や都内のペットショップを渡り歩いたりもした。ここ数年でいちばん焼けた夏だった。

夏にこんがり焼けたこと。自分を忘れられるほど夢中になれる生きものが家にいること。すべてが嬉しくて幸福だと感じた。わたしには家に帰ったら可愛いハムスターがいる。

ふと夜中に目を覚ました時、ひとりきりの天井がさみしかった。でもいまは夜中に目を覚ました時、わたしのほかにもうひとつの命がこの家にある。そのことにわたしは安心をもらう。
そうだよなと思う。大切な守らなければならない命があることはこんなにも恐ろしく、同時にこんなにも幸福なのだ。

今はこまのいる生活にも慣れてきた。こまが巣作りをしているのを見て、私も部屋を片付ける。こまとキャベツやニンジンやブロッコリーを分け合い食べる。そんなことがとても幸せだ。

こまを大事にしているうちに、いつのまにか自分のことも大切に考えはじめていた。なんにも依存せず、身軽に生きたいとは思うけれど、どうでもいいなんてもう思っていない。

かつてそこにあったものが失われた後も、立ち直って歩き続けるしかない人生というものがしんどかった。だったらはじめからなにも期待しない、なにも手に入れない、そう決めてしばらく生きてみた。

それも楽だし、特に不便は感じなかった。でもどうしようもなく寂しい時も耐え切れない夜も本当はあった。一人で泣いて、泣きながらごはんを食べて、泣き疲れて眠る。でもそんな風に暮らしてると思えないほど人前では普通でいた。誰にも気づかれないように暮らせていることに安堵しながらも、本当は誰か助けてと思っていた。だけど、ちゃんとわたしはわたしを自分で救えた。もちろんこまのおかげだけど、こまをお迎えすることを決めて選んだのは紛れもなくわたしだった。

誰も永遠に生きていけるわけではない。誰でも人との出会いや別れもある。でも最後まで一緒にいるのは自分自身。

だからわたしは好きなものに囲まれて、好きな時間を過ごして、わたしはわたしを愛していよう。わたしを愛してくれる人を大事にしていこう。それは家族になれなくても、恋人になれなくても、たとえいつか会えなくなっても、死んでしまっても、わたしの愛する命たちなのだから。

私は家族が欲しかった。でも形にならなくても、名前のつかない関係でも、一緒に笑えているほうがいい。自分が自分らしく、相手の幸福を素直に願える。そんなほうがずっといい。そんな人たちがいる今のわたしはとても幸福なのだ。恵まれているのだ。怯えてなにも持たないことを選ぶのはやめよう。所有するのではなくて、ここにいる私の触れるものすべて愛していきたい。

こまを含めわたしが愛するひとたちと、ただ、いられる限りそばにいたいと願う。
永遠ではなく、いま同じ時間を分け合えていることが全てなのだと。
いまが過去になる日がくることもまるごと受け入れて。

こまは、ただただ、いまを生きていて、わたしはその命に関われていることが、ただ嬉しくて幸せだ。わたしはいまわたしの近くにいてくれている大切なあなたたちと関われて幸せだ。

こまと暮らして、自分で自分にかけていた呪いがどんどんと解けていった。

わたしはきっとこれからもっと簡単にわたしを愛せるし、大切な人を愛せる。未来も過去も置いて、いまを生きていける。そのことが怖くない。

そのことがとても嬉しい。

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