はじめてのフィールドワーク
ゴールデンウィークの4/27・28の2日間、私はとあるイベントに参加してきた。
ソフトな人類学 〜裏・糸島フィールドワーク編〜
一泊二日の合宿形式で、ペアで糸島の街でフィールドワークを行う。その経験を持ち帰り共有し、他の参加者や人類学者の方とディスカッションするというもの。イベントを通して感じたことを記録しておきたいと思う。
参加のきっかけ
私はこの4月で、新卒デザイナーとして会社に入社してちょうど1年。この4月から2年目ということになる。このイベントに参加するきっかけとなった出来事を含め、直近の半年は私にとってたくさんの驚きと発見があった。
遡ること数ヶ月前、私は初めてUXリサーチのプロジェクトを経験した。この時私は先輩の現場視察とインタビューのお手伝いという立場だったのだが、幸運なことにその数ヶ月後、自分もインタビュアーをする機会が巡ってきたのだった。
これまで色々なタイプのプロジェクトを経験させてもらってはいたが、インタビュアーを経験したことで「仕事って自分らしくやっていいんだ」という発見があったのである。
私は学生生活も含めたこれまでの人生で、尊敬する先輩達というものに出会えてきた。その中で、「これらの知識や美意識は、ある程度備えておくべき」というデザイナー像が私の中には育まれている。
だからこそ、先輩とお仕事をしていると自分の経験と引き出しの少なさを痛感する。それから学ぶこと自体は楽しく面白くやっているのだが、そこに特別自分らしさのようなものを見出していたわけではなかった。
「こうあるべき」デザイナーとして存在する先輩達は私の上位互換であり、仕事の質を考えると「私だからこそやれる仕事がある」という意識を持ったことがほとんどなかった。
同様にインタビューの仕事に関しても、「この人のようにやれるようになりたい」とずっと思っていたのだ。
インタビュアーを経験したことで私に降り掛かってきた問いは「で、そんなあなたは誰なのよ」ということだった。
インタビュー前に、事前アンケートを見返しながらインタビュイーの人柄を想像していた時だった。
この人からどんな話を引き出せるかな?ということを考えているのだが、そんな気持ちがある私は自己開示しているつもりなのか。自分は一体どんな視点でインタビュイーの話を聞こうとしているのか、ということだ。
そして、私の尊敬する先輩は確かにすごいが、私とは見た目も声も年齢も経験してきたことも異なる。私と彼がインタビューするのでは、その場の会話のテンポも変われば、反応・発話も変わる。確かにそこに経験や技術の差は存在するのだが、私がモデレーターであるという事実は変えられない。
この気付きは、「先輩のようにやりたい」ではなく「私らしくやるしかない」という視点をもたらしてくれた。
これが、私にとって「うまくやること」をやめられるきっかけとなった出来事で、「仕事って自分らしくやっていいんだ」という発見だった。
イベントにて
そんなこんなで、自分らしくやっていい(正確には、自分らしくやることしかできない)仕事を見つけた私は、わりと勢いでこのイベントに参加したのである。
学生の頃からなんとなく、生活史や人類学に関する本はたまに手に取るジャンルの本だったが、社会人になってこのあたりの興味とお仕事が少し接続した感覚があり、嬉しかった。
イベントでは「裏・糸島」の発見を持ち帰るというキーワードがあったのだが、何が表で何が裏なのか、私はいまだによくわかっていない。
ただ、イベントに参加してみて「私にはわからない」とはっきりと言ってしまえる自信という強さというか、それにじっくり向き合っていい許しみたいなものを得たような感覚がある。
フィールドワークでは、共にイベントに参加したYさんと2人で糸島を歩いてみた。私たちは大入駅と福吉駅付近にある白山神社という場所で、神輿の修繕作業中にタバコ休憩をしているおじさんに出会った。
彼はちょうど、他の神社から譲り受けた子ども神輿の修繕をしていたらしく、話しかけたら色々なことを教えてくれた。
彼は自分の着て来たジャケットのハンガーを、修繕していない方の神輿にかけていて、作業場の周りには工具がたくさん転がっていた。
どの道具も修理しながら使い続けていると彼は言っていて、確かにどの道具も長らく使っているように見えたが、作業場の脇の方に停めている車だけはなんとなく綺麗だった。車のことはよくわからないと彼は言っていたが、その場にあるものの中で、その車だけまだ彼にとって彼のものになりきれてない感じがした。
作業場には中身が空のお皿とフォークが2セットあった。彼に話しかける前、作業場で女性と喋っているのを見かけた。途中、奥様の話も少し聞かせてくれたこともあり、さっきまで一緒に何か食べていたのだろうなと想像したりした。
そして、何度も確認したが、やっぱり彼のタバコが見たことない銘柄だった。コンビニバイトをしていた私にも分からなかったので、この辺りでしか売ってない種類なのだろうか。沖縄に売ってるうるまみたいなやつ。
結局、1時間半くらい彼と色々話をしていた。すべては書かないが、最近の彼の習慣や、お気に入りや楽しみを聞くことができた。
(これを書いている)今日は日曜日だから、彼は今日も作業をしているのかなと思う。(最近土日はずっとこの場所で作業をしているらしい)
今日はだいぶ暑い。私が住んでいる場所と彼の作業場は電車で40分くらいの距離なので、彼が過ごしている場所の天気を想像できるから嬉しい。
作業場の神社では、月の初めに月次祭があるらしいのだが、5月はゴールデンウィークだったので、こういうイレギュラーな日程の場合はどうするんだろうなと考えたりしている。
このような文章を書きながら思うのは、フィールドワークとはどういうことなのだろうか、ということ。今私は、遠くに住んでいる友人の生活を想像することと、似たような気持ちになっている。
問いは持っていかなかった
フィールドワークができたのか?と言われるとよく分からない。
私は専門的な知識を身につけておらず、手法の正しさや質を問われると何とも言えない。
だが、あの日あの場所に行ったから偶然生まれた状況があったことには何か意味があるのかなと感じる。
裏の糸島という文脈で言うと、普段私がよく耳にする、観光地というラベリングをされた糸島ではない糸島を、少し覗くことができたのかなとは思う。
だが、彼にとっての普段と私にとっての普段は異なるものであるということを考えると、誰の目線で何を語るかということを改めて意識する機会にもなったと感じる。
イベント2日目に、フィールドワークで何を見て聞いたのか、感じたのかについて簡単にまとめ他チームと共有するという時間があった。
個人的に、昨日あの場所で少し話した人のことを、私が他者にどう語るのか?ということに戸惑った。誰かにとって分かりやすい言葉に変換し説明するには、まだ何も知れていないという気がしたから。
何が分かったのかをまとめるために、分析し構造化することに抵抗があったというか。だから、今は事実をできるだけありのままに受け取りたいなという気持ちがあった。
フィールドワークをする前に具体的な問いは用意していかなかったのだが、彼と話したことではじめて気になり始めたこともある。
彼は自分の住んでいる糸島という場所について私に色々な言葉を使って説明してくれたが、なぜ彼はこの場所をそのように捉えているのか、ということが問いとして気になっている。
最後の共有会の時間に、メッシュワークの水上さんが「分からなくて、それでいいんですよ」と言ってくれたが、今はそれをお守りのような言葉として持って帰ってきている。
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