The 1st 「仕事」
こんにちは、あまぎしめいかです。
『限界から始まる』から始まる往復書簡マガジンの始まりは、
上野千鶴子と鈴木涼美の共著、「限界から始まる」を読みながら
"えいこさんだったら、どうんな風に考えるのだろう…?"と思ったことでした。
唐突な推薦書のメッセージだったのにもかかわらず(笑)、えいこさんが本当にこの本を読んでくれたことから始まった長い長いディスカッション。
「こんなに面白いのに二人だけの会話で留めておくの勿体無いね。」と言うえいこさんの一言から、『限界から始まる』から始まる往復書簡マガジンを始めることになりました。
どうおよろしくお願いします!
第1回目のテーマは 「仕事」
テーマは、原本の「限界から始まる」の目次から、お互いに今気になるテーマを選んでいきます。
今回は、私の選出。
就職活動をやめ、世間一般的にはとても重要とされる新卒1年目を捨てて
アフリカに行っていたら気づいたら卒業してからかれこれ半年が経つ私にとって、現実世界で生きていく為に向かい合わないといけないテーマです。
生活するためにお金を稼がないといけないのも事実。
でもだからと言って、お金を稼げるならなんでもいいわけじゃない。
きちんと手段も選びたい。
これからどうやって働くのか。
女性のキャリアの築き方。
サラリーマンなんて…。と思う気持ちと、
仕事を通じてスキルを身につけていきたい。
という、どっちにも100%でうなずけない
いい加減な気持ちを、鈴木涼美さんは本の中で良く言い表してくれています。
7章「仕事」鈴木涼美
色々な仕事の中から、色々な価値判断をして仕事を選んできました。
やってみたい仕事、女性であることが重要な仕事、重要どころかネックになる仕事、結婚偏差値が高い仕事、結婚に不向きな仕事、などのゆるい分断の狭間でどの価値に重きを置いていいのか。
やりたい仕事と、歩みたい人生に向いている職場が一致する場合もあれば、そこに違いがあれば何を優先するか、見落としている視点はないか。
自分なりの価値基準を持って仕事を選ぼうとする場合もあるのだと思いますが、その際の寄るべない気分もまた、結婚神話が強固でなくなった女性たちの課題の1つのように感じます。社長と社長夫人だけじゃない、もっと細かく選択肢の別れた状況の中で、自分の人生にどれだけ「女」をませ混むのか。
強烈な価値基準の無い中で、幅広い選択肢を与えられる女学生たちの途方もない気分は少し想像してしまいます。
7章の「仕事」からの引用ではなく、早速ルール違反ですが、
今の気持ちをよく言い表してくれているなと思う部分を、もう一つ。
6章「能力」で前半の鈴木涼美さんの投げかけに対し、上野千鶴子さんが書いたお返しの冒頭。
...思えば前近代の人びとは、狭い世間の外を知らず、親がしてきたことを見て育ち、親が生きてきたように生きて、年ごとに同じことを繰り返して一生を終えたのでしょう。…これで冬を迎えれば、コロナライフは季節を一巡することになります。何が起きても季節の回りは確実に来る。その事実は、なんと言う大きな慰めでしょう。….とはいえ、これから伸びて、動いて、育っていく若い人たちには、この閉塞は辛いでしょう。
7章で鈴木涼美さんは、
"高度経済成長期以前は、「結婚するまでは処女を守り、いい男性・いい家族に嫁入るすることが女性の幸せ」という結婚神話という名の強烈な価値基準があったから、女性にこれほどの選択肢はなかった。前例がないほどの選択肢の多さの中から、自分だけの答えを見つけ出さないといけない最近の女学生の苦労は大変なものでしょうね。"
と言ってくれています。
6章の上野千鶴子さんの文は、特に説明は必要ないでしょうか。
両者ともに、「もう本当に、、そうなんです。。わかってくれますか。」と泣きつきたくなるほどです…(笑)
よく言えば、好奇心旺盛。悪く言えば、飽き性な私にとって、
今やりたいことが、今までやってきたことの延長線上にないこともしばしば。さらに、今やりたいこともたくさんあるから、それをどういう価値基準で、どう優先順位をつけていくのか。本当に難しい問題です。
この問題をさらに難しくするのは、鈴木涼美さんのいう「自分なりの価値基準を持って仕事を選ぼうとする場合もあるのだと思いますが、その際の寄るべない気分もまた、結婚神話が強固で亡くなった女性たちの課題の1つのように感じます。」の部分。
“寄るべない気分”の中に含まれて欲しいのですが、
アフリカにいった今、思うのは
「どうして女性は、体力のほとんどを、生まれてきて数日のほうって置いたら死んでしまうような未知の生物の世話に持っていかれるのと同時に自己表現や自己実現のために働くことを求められるのか」ということです。
アフリカ(と言ってもほとんどの人が携帯を持っているし、都会には2,3階建てのビルもたくさんあるので地方の都市くらいには発展しています)には、まだ、女性が命がけで子供を産み・育て、男性がそれをサポートしながら暮らしていくだけのお金を稼いでくるという生活が残っていました。
少し話が逸れますが、ハイデガーの彼女だった、ハンナアレントは、人間の働きについて「労働」・「仕事」・「活動」に分けたそうです。
「労働」という言葉は、産業活動期に与えられた”苦役”という意味と同意義的使われるようになってしまったが、ハーレントはまったく違う定義でこの言葉を使います。
・「労働」-Laber- =人間の肉体が自然に成長し、最後には朽ち果てる過程。仕事はしていないけれど、仕事をしている時よりもずっと深い「生きる」という労働に従事することができる。(Laverには”陣痛”、”分娩”の意味がある。)
・「仕事」-work- =仕事は、自然環境と際立って異なる「人工的」世界を作り出す、人間の非自然生に対応する活動。仕事なき労働は成立するが、労働なき仕事は成立しない。
・「活動」-Action- =物/事の介入なしに、唯一直接人と人の間で行われる活動。人生の問いについて考えたり、友人と語らうのは、労働でも仕事でもないが、活動に当てはまる。
このことを踏まえると、「生きる」ために、食を準備し、身にまとう衣類を清潔に保つことは「労働」に含まれるでしょうし、Laberの意味に含まれるように、子供を産み育てることも「労働」でしょう。
今のアフリカや、昔の日本にはあった
家族という小さな社会の中で、男性が「仕事」を担い、女性が「労働」を担っていた生活は、それはそれでよくできた生活だったんだろうなと思います。
日本に暮らしていると、「女性も男性と同じ権利を持つ」ということが異論なく良いこと。と浸透してしまっていますが(それが間違っていると言いたいのではなく)、そもそも、その生活には、「男性が女性を養ってる・管理している」という感情も、それに伴う男性への負担も、なかったのではないかな。そんな感情はいつからどうやって芽生えてきたんだろう。とも思いました。
ですが、女性が「生きる」ための基本的「労働」だけではなく、人工的な知的生産物である「仕事」に関わりたいと旗を揚げた今、女性だけが「仕事」と「労働」の両立を迫られるのは、あまりにも不均衡極まりないとも思います。
また、日本や欧米ではもう女性自身が「生きる」ための基本的「労働」だけではなく、人工的な知的生産物である「仕事」に関わりたいと旗を揚げていますが、トーゴやベナンの女性はまだ、その旗を揚げていない(ように思えた)のに、「女性も非自然的な人工的な仕事に参戦しないといけません!」という価値観を提供することが良いことなのかわからなくなりました。
(私ごときがわからなくなったところで、世界はこの価値観を提供していることに気づかないまま提供し続けて、きっとトーゴやベナンの女性たちも旗を上げたいと思うだろうから、”いち早く提供したモン勝ち”なのも確かなのでしょうが)
鈴木涼美さんの言葉を借りるなら、アフリカに行って帰ってきた今の気分もまた、「女性も社会に出て仕事をするのが良い」とされる神話が強固でなくなった私にとって、自らの職を選ぶ暗中の中で重要な課題の1つのように感じています。
(まぁ、食べるために働かなくてはならないので、結局は私も急速に社会に出て仕事をする必要があるのですが。)
Ps.生粋の理系出身のえいこさんの文章は、生粋の文系出身の私にとって、とてもわかりやすく整理されていて憧れるのですが、えいこさんにとって私の文章が乱雑で読みにくくないことを祈ります。
ナツをもっとアカルくするエネルギーになります!