ホビットに人権はあるか?!
俺には人権がない…
突然だが、筆者の身長は168cmである。そんな筆者にとって、プロゲーマーである“たぬかな”氏の発言は衝撃的であった。
たぬかな氏の定義に沿えば、筆者には「思想の自由」もなければ「財産の自由」も存在しない。ましてや、「生命権」すら保障されえないと思われる(とはいえ、「生きていってください」と発言しているので、生命権は最低限保障されるようであるが・・・)
たしかに私は平均身長にすら満たないホビット族である(日本人男性の平均身長は172cm←意外と高えな!)。
しかしながら、身長が低いというだけで人間扱いすらされないというのはいかがなものか。むしろ、明治大学に進学してエリートコースを進む私は、一日中ゲーム配信してるような底辺族よりずっと人間らしいと声を大にして言いたいところである!
「たぬかな、お前はゲーム配信するよりもまず『人権』の意味を理解し直してこい!義務教育からやり直せ!」
このように言ってしまいところであるのだが、実は、「170ないと人権ないんで」発言に関して、たぬかなは悪くなかったのかもしれない。むしろたぬかなは被害者であるとも言える。なぜなら、そもそも義務教育における「人権教育」は十分になされていないからだ。
人権教育が十分になされていないとはいったいどういうことであるのか、本記事では、この点について現役法学部生からの視点を交えつつ解説をしてみたいと思う。
現代版「和魂洋才」
「人権教育」という言葉については、読者らも一度は耳にしたことがあると思う。そして、実際に小中学校において人権教育を受ける機会があったことであろう。
では、読者諸君らはその「人権教育」において何を学んできたか思い出せるだろうか?
…おそらく正確にその内容を思い出すことができる方は少ないのではないか。
部落差別、障がい者差別、性差別といった授業が想定された方は非常に優秀で稀有な方である!
そう、日本においてはこういったマイノリティー集団に対する理解を深めるという形での人権教育が中心となっているのだ。
「出身が違うだけで差別されるのはかわいそう」「障がい者は助けてあげなきゃ」「女性は社会的立場が低いから積極的に救済しなければいけないよね」
いや、待て待て待て!
人権とは「かわいそうな人は救済される権利」なのか?!
こんな教育は人権教育ではない!
そもそも諸君らはこういった授業はどこで学んだであろうか。
「道徳」という授業ではなかったか?
道徳で人権が理解できるわけないだろう!
だいたい、道徳はモラル(moral)であるのに対して、人権は人の権利(human rights)なのだ。語義から考えてもまったくの別物である。
戦後、近代的人権思想を取り入れた日本国憲法が成立し、
西洋的価値観を形式的に取り入れた一方で、その本質は日本的精神論である現在の人権教育は、現代版「和魂洋才」ともいうべきものだ!
やや熱くなってしまったが、ここからは少し冷静になって話を進めていきたいと思う。
ここまで熱く話したように道徳においては、「かわいそうなマイノリティー集団を救済する・思いやる」といった授業が取り扱われることが多い。中央大学教授の池田氏は次のように記している。
このような道徳教育においては、マジョリティー集団(多数派)による「慈悲・思いやり」として、マイノリティー集団(少数派)の権利保障が実現されている。
しかしながら、「慈悲・思いやり」といった「道徳」による権利保障は非常に脆い構造であると言わざるをえない。
たとえば、もしも多数派がそのような慈悲を与えなかったらどうなるか。バリアフリーに配慮すればエレベーター設置費だってかかるし、多数派にとって負担がかかることは多い。
「これまでは余裕があったから少数派にも配慮していたけど、余裕がなくなってきたから少数派の権利実現は後回しでいいよね」
読者諸君らは「そんなことはあまりにもひどすぎる」と考えるかもしれないが、道徳に依拠した人権教育にこういった脆弱性が潜んでいることは事実なのである。
「多数派が少数派に与える」のではなく、「少数派が自らの権利を主張する」
これこそが本来の人権概念なのである。
人権とは、人種、性、身分などに関係なく、ただ人間であることにのみ基づいて保障される「権利」なのである。この点は強く強調しておきたい。
正しく人権を理解するために
ここまで、徹底的に日本の人権教育を批判してきたが、
結論、どういった人権教育が望ましいのかを示さなければ文責を果たしたとはいえないだろう(かなり記事が長くなってきたがもう少々お付き合いいただきたい笑)。
結論を先に述べてしまうと、
小学校における道徳教育は現状を維持しつつ、
中学校以降において、より本質的な人権教育を行うこと
を提案したい。
「道徳教育を徹底批判したお前がいまさら何を言ってるんだ」と思われるだろうが、むしろ小学校における道徳教育は、中学校以降において正しく人権を理解していくための基礎的な価値観を養成するうえで重要な地位を占めていると私は考えている。
というのも、2章における人権の解説を受けて、
「そもそもなんで人権を認める必要があるの?」と疑問に思われた方はいないだろうか。
現在は「人権は尊重しなければならない」と考えることが普遍的な価値観として定着しているが、例えば鯨食文化について日本と海外で意見の相違があるように、人権概念についても国同士ないし個人同士で意見の相違があってもいいはずなのである(事実、戦前においては、人権は国内法の枠組みにおいてのみ保障されるものであった)。
しかしながら、やはり人権は個人間の意見を超越して、当然に認められるべき概念なのだ。なぜだろうか。
実は、その答えは道徳教育に隠されている。
やや難しい内容になってしまうが、憲法学の権威たる芦部氏によると、
要するに、人間は尊厳的で自由な生き物であることを前提として認め、
さらに、尊厳的で自由に生きるために必要な権利は当たり前に保障すべきであるということである。
そして、この「人間の尊厳性」を理解していくうえで、道徳教育は効果的である。
具体的には、
マイノリティが不利益を被る社会は不平等であり良くない
⇓
なぜ良くないと感じるのか
⇓
同じ人間なのに、同じ権利を享受できないのはおかしい
といったプロセスを経て、徐々に人間の尊厳性を認めることにつながるものであると考えるのである(ただし、ここで少数派に対する思いやりを強調してはいけない!)。
中学校以降においては、小学校において醸成した価値観を基礎として、
社会科公民における憲法人権規定の学習、そしてこれに付随して、マイノリティ以外の人権侵害問題について学習する機会を設けることを想定する。
例えば「死刑問題」を題材とした人権学習はどうだろうか。
従前の「思いやり人権」では死刑囚の生命権保障という人権問題について考えることは難しいところである。しかし、正しい人権概念に基づけば、「死刑は人間の尊厳を担保するうえであまりにも残虐な刑罰ではないか」といったことにまで考察するに至るのである(死刑存廃の結論ではなく、死刑が人権問題となりうることを理解することが大切!)。
おわりに
第3章は堅苦しかったので、おわりは楽にいきましょうか笑
私がこの記事で最も訴えたかったのは、
「人権とは、人が人であるがゆえに享受できる権利であり、決して思いやりによって与えられるものではない」ということである。
読者諸君らは聡明な方が多いと思われるため、
「170ないと、正直人権ないんで」なんて発言はしないであろう。
しかし、「犯罪者には、正直人権無いんで」だとどうだろう。少し口にしてしまいそうではないだろうか。
しかしながら、この発言も人権の正しい意味に鑑みれば誤りである(犯罪者であったとしても、拷問されない権利などの人権は保障されている)。
配信者にならないとしても、SNSが発達している現代において、
諸君らが表現を発信する側となることは十分にありうる。
ぜひともこの記事を生かして、適切な表現による発信を行ってほしい!
結局終わりも堅苦しい感じになってしまった笑
けれど、ここまで読んでいただいて本当に感謝したいと思う。
筆者としては、なるべく面白く、そして飽きないように書いたつもりではあるが、
それでもやはり人権とか日本の教育とかといった真面目な話は退屈ではなかったか心配である(まあ退屈なら第二章でブラウザバックしてるか笑)。
ここまで読んでくれた君はきっと興味深かった、疑問や反論があるという方々のはず!
そんな方はぜひとも雄弁部で私と語らいましょう!
それではまた次の記事で!
【追記】
なお、余談ではあるが、第三章最終部分において死刑と人権問題について触れたのは、わたくし自身がこの分野について深い興味を持っているからである(昨年度は死刑問題だけで3本のレポートを書いた笑)
機会があれば改めてnote記事にしたいところであるが、記事の執筆には大変な労力を要するもので、次回担当するのはいつになるか分からない…
【追記2】
この記事の公開予定日はもともと3月30日だったのだが、
いろいろあって公開が遅くなってしまった...
そして、公開が遅れている間に、
筆者は明大の健康診断を受けてきたのだが、
身長は167.5cmであった...(鯖読んでてごめんなさい)