イアン・リード(2020)『もう終わりにしよう。』の読書感想文
カナダのオンタリオ州在住のイアン・リードの『もう終わりにしよう。』を読んだ。翻訳は坂本あおいさん、早川書房から2020年に出版された文庫本である。
この小説は、一人称の女性の語りで進み、非常に読みやすい。読みやすいけれど、なんだか不穏な空気に包まれている。
彼女は結婚や長期的な男女のつながりを素晴らしいとは言うものの、失敗が多く、続けられるものではない、と醒めている。無残な別れを迎える前に、関係を終わらせることを決めているのに、彼の両親に会いに行く。
彼の匂いは嫌じゃないけれど、朝起きたときにある口元の白っぽさ(よだれのあと)は、なんだか嫌だ、という描写のディティールには妙なリアリティがある。
しかし、彼女が本当に彼に恋をしていれば、愛していれば、きっとそのよだれのあとに手をやって、笑いながら母親のように、かすを落としてやるだろう。
彼女がそれに違和感を覚え、否定的に捉えている、ということは、関係の終わりが近いことを意味する。
この小説は、緻密に計算されていない。だからこその気味の悪さ、気持ち悪さがある。
終盤に入ると、一人称の「わたし」が「わたしたち」「我々」と揺らいでいく。
自我と他者の境界が揺らぎ、現実と妄想が入り混じり、虚構なのか創作なのか、誰の視点なのかが判然としなくなっていく。
ある種の読者は、著者の無責任な書き方に憤りを感じるかもしれない。
「信用できない語り手」を超えて、「信用できない著者」であることを読み手は悟るのだ。
わたしは、意外と怒りは感じなかった。わたしが抱く「孤独」のイメージとそう乖離していなかったからだと思う。
また、男女やカップルに対する考え方、他者を求めながらも、求め続けることの面倒くささ、一人でいることの気楽さ、厭世観が、軽い筆致で描かれており、著者の考え方に共感を覚えた。
ただ、わたしたちは、そう簡単に人生を終わらせることなどできない。誰かとの関係をきれいさっぱり終わらせることも、なかなか難しい。他者の感情と記憶、自分自身の感情と記憶は、細かな微調整を常に必要とする。
わたしたちは、現実でも妄想でもない世界、感情と記憶を編集しながら、生きている。虚構と現実の境界は曖昧で、危ういバランスで成り立っているに過ぎない。
だから、わたしは暴走する脳みそをひ弱な身体が制御してくれているように感じる。身体には、感情のストレスが現れるし、痛みや疲労による限界があり、わたしの行動を抑制する。それがあるおかげで、人に殺されず、また人を殺さずに済んでいるような気がする。
(映画化もされているのだが、わたしのイメージしていた二人とは、ちょっと違うなあ)