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#映画感想文176『ドライビング・バニー』(2021)

映画館で『ドライビング・バニー(原題:The Justice of Bunny King)』を観てきた。

監督・脚本はゲイソン・サバット、主演はエシー・デイビス(バニー)、バニーの姪っ子役のトーニャをトーマシン・マッケンジーが演じている。2021年製作、100分のニュージーランド映画である。

原題を直訳すると、『バニー・キングの正義』である。邦題のドライビングは、ミスリードであると思う。わたしは映画を観ながら、いつ旅立つのだろう、と待ってしまった。(ライアン・ゴズリングか西島秀俊ぐらい車に乗ってから、ドライブという言葉を使ってほしい)

舞台はニュージランドで、アメリカと同様、土地が広く、車社会である。車がなければ暮らしていけない土地においては、運転ができること、車を所有することは自立の象徴でもある。

主人公のバニー・キングは、2人の子どもを持つシングルマザーである。夫が子どもに虐待することに耐えられず、(また彼女への暴力があったことも推察されるが)正当防衛で夫を殺してしまった女性である。

で、この映画の感想で、バニーが自分勝手でわがまま、というニュアンスのレビューも見たのだが、わたしはまったくそうは思わなかった。話してわかるような男であれば、女子どもを殴ったりはしないし、彼女が殺す必要もなかった。ただ、彼女の子どもたちは里親の元を転々として暮らす日々を強いられ、面会も社会福祉局で行われ、彼女から自由は奪われている。

彼女は、車の窓ガラスを拭く仕事で日銭を稼ぎ、妹夫婦の家に居候させてもらっている。妹は前の夫とのあいだに娘をもうけ、今の夫と再婚して男の子を産んでいる。看護師として忙しく働き、それなりに収入があるように見えるが、「夫の許可が必要。ここは彼の家だ」と述べ、自信がなさげで、対等な夫婦とはいいがたい。子連れで再婚した女性の立場は、どうにも弱い。再婚した女性は、新しい夫のために頑張って子どもを産むケースが多い。おそらく、それは自分の子どもを殺させないための、動物的な行動なのだと思う。しかし、連れ子が娘であった場合、義父が性的対象として眼差しを向けるといった虐待も往々にして起こる。娘のいるシングルマザーとお見合いをしたがる男性の話なんかを聞くと、自分が子どもを産んでなくて心底ほっとしたりする。

ある日、バニーは姪のトーニャが義父のビーバンに車の中に連れ込まれているのを目撃してしまう。不穏な空気を察知した彼女は逆上する。それがきっかけで、彼女は家から追い出されてホームレスとなってしまう。性的虐待やレイプがあったのかどうか、はっきりとは描かれない。しかし、姪がバニーと一緒に家を飛び出したのだから、義父が真っ黒だったことは明白である。そして、姉であるバニーの訴えを無視して、妹は夫の主張をそのまま受け容れてしまう。そして、自分に真偽を尋ねてくれなかった母親に娘は失望する。

バニーはトーニャを守ろうと、即座に部屋に鍵をつけてくれる。正義感が強く、男性に対する嫌悪感と警戒心が強い。実の母親が自己保身のためか、夫(実父、義父問わず)が娘にセクハラをしても、動かなかったり、見て見ぬふりをするのはよくあることだ。ただ、助けてもらえなかった側はそれを忘れることはない。実際の加害者より、加害していることを知りながら、何もしなかった母親が憎まれる。わたしはこの実母が可哀想だとは思えない。娘より夫を優先し、生活のため保身に走っている。それを自覚して、我が身可愛さを優先したのだと認めればいい。被害者ヅラをするなよ、と思う。

バニーも、母親(妹)も、トーニャも悪くない。男が悪いのだ、と断じるのは簡単だ。ただ、バニーのように行動しなければ、何も変わらない。社会の仕組みや男性文化、男根主義が変化するのを待っていたら、みんな骸骨になってしまう。被害者が増えるだけだ。バニーのような勇気のある女が戦うしかない。しかし、そのリスクをバニーにだけ負わせてしまうのはかなり無責任な話でもある。バニーは、DV夫に殴られることを是としなかった。(確かに殺すのはやりすぎだったかもしれないが、そういう男は別れたあと、ストーカーになったりするではないか)それによって、一文無しとなり、家を失い、守りたかった子どもたちにも会えなくなってしまう。

終盤、福祉局の女性が、バニーを頭の狂った女だと断罪することなく、恐る恐るも、彼女を理解しようと試みる姿に救いを感じるし、その役が黒人女性であることにも、監督の強い意図を感じる。シスターフッドまではいかなくとも、弱者同士の、今にも切れてしまいそうな、心許ない連帯がそこにはあるのだ。

妹の家から追い出されたバニーにベッドを提供してくれたのも、白人ではなく、ニュージーランドの先住民であるマオリ族の貧しい家族だった。その家のお母さんがバニーに向かって「きっとよくなるから大丈夫よ」と家の鍵を何気なく渡すシーンも、今思えばすごい。他人を信頼できる人たちには、やはり勇気があるのだ。

バニーの前では常に仏頂面の思春期の長男が、自分が失敗してしまったかもしれない、とバニーに電話で詫びるシーンなども、困った母親だと思いながらも、母親を愛していることがよくわかり、胸を打たれた。

そして、娘を喜ばせたい、と娘の誕生日パーティーの準備を頑張るバニーは母親でありながら、子どものようでもある。誰かを本気で喜ばせたいと思ったら、人は子どものようにふるまうのかもしれない。

終盤、このままでは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で終わってしまう、とビビっていたら、そうはならなくて、安堵した。最後には、姪っ子のトーニャ(トーマシン・マッケンジー)がドライブをする姿が映る。おそらく、彼女の「自立」が表現されているのだと思われる。

監督のゲイソン・サバットは本作がデビュー作であり、出身はタイのバンコクで中国系のレズビアンだという。ここのところ、セリーヌ・シアマ、グレタ・ガーウィグ、オリヴィア・ワイルドと女性監督の活躍が目覚ましい。韓国には、キム・ドヨン、キム・ボラもいる。性的指向も明らかにして、テーマもド直球フェミニズムで映画が作られていることに驚く。

わたしは、もしかしたら、平塚らいてう、伊藤野枝、与謝野晶子に興奮していた人々と同じような感覚を味わっているのかもしれない。世相や文化が突然変わることはないが、それはらせん状に途切れることなく続いていくのだ。変化は起きたり、起こらなかったり、物事は進んだり、戻ったりする。それを観察したり、ときには当事者になることもある。ヤケを起こさず、社会の中で生きる自分を楽しめたらいいな、と思う。

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佐藤芽衣
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