![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/68504218/rectangle_large_type_2_99a3fc2f68b97efd4b6e25728b92f95b.png?width=1200)
中絶経験後「胎内記憶」という信仰を知り、恐怖を感じたという話
私は一度、中期中絶をした事があります。
お産と変わらない産み方をし、とても後悔をしました。
それがトラウマとなり、その後色々とあるのですが…それらを語るのはまた別の機会に。
今回は、その経験をした後、ずっと涙を流していた私に看護婦がかけた一言がずっとひっかかっている件をお話したいと思います。
中絶について語っている事、トラウマの要因である描写もありますので、念の為読む際にはご注意ください。
彼氏に自信がない、と言われ、中絶を決めた
経済的にも自信がなく、結婚前の妊娠は躊躇いがあると言われました。
最終的に決めたのは私なので、私に全責任があります。
私があの子を殺したのです。性別もわかる状態でした。
(勿論私が歩んできた人生を鑑みて私自身の場合に対してだけそう思っている。というだけで、他の方に対してはそう感じた事はありません。)
5ヶ月まで、ずっとずっと悩んだのです。話せばこうなる気がしていました。だからここまで待ってしまった。
私があの子を苦しめたのです。
医師もとても冷たく、今でも無理矢理何日もかけて子宮口を開き、辛く苦しく、最終的には手を突っ込まれて子を引き抜かれた感触を思い出します。
産声はありませんでした。当たり前です。中々子宮口が開かず、私のせいで何日も苦しめてしまいました。今でも思い出すと涙が止まりません。
葬式の手配を自分でし、これからしなければいけない事を整理し、涙が止まらず廊下でぼーっとしていた時のこと。
看護師さんが話しかけてくれました。
「赤ちゃんはきっと産まれてこれない事をわかっていた。貴方がそうやって強く望んでいれば、きっとまた貴方の所へ帰ってきてくれると思う。」
私が殺したのに、赤ちゃんはそれをわかっていたと。私が望めばまた帰ってくると。
そう、看護師さんは言うのです。慰めてくれるのです。
私の中絶がそうでしたが、分かっていても辛く苦しく二度と体験したくない出来事です。
死など、それらをも超える二度と経験したくない出来事でしょう。それを体験する事が分かっていて了承していたとしても、実際に体験すれば考えが変わる事もあるでしょう。でも赤ちゃんにはそれがないとでも言わんばかりの話です。
私の心はもうボロボロで、それにただ頷くしかできませんでした。
そんな都合のいい話があるんですね。私はそれに縋りたくなりました。
が、罪を背負うと中絶を決めた時に固く決意した以上、自制しました。例えそれが本当だったとしても、私がそれらを信仰する資格はないし、真実がどうであれ、あの子の本当の気持ちも、声も、私が生きている限り私に届く事は永遠にない。
例え風の噂でその子の話だ、として聞いた話があったとしても、それが本当に本当の話であるのかどうかを本人に確かめる事は永遠にできないのです。
それを私は強く自覚しなくてはいけない、と思いました。
言葉通りの意味を持たない「胎内記憶」の危険性
それから色んな話を目にしました。
「胎内記憶」というのは、一般的にはお腹の中にいた頃などの話を覚えていると言う、言葉通りの意味を持つものと、もう一つあります。
「胎内記憶」という言葉通りの意味を持たない、生まれてくる前の記憶を持っていたり、どうやって命をもったか等大変スピリチュアルな意味を持つものがあります。
先程看護師さんが慰めてくれた様な、産まれてこられない事は子供自身わかっていた、もう一度お腹に宿って産まれてくる等エピソードは様々です。
私は、その後未受診妊婦を経験し、二度特別養子縁組に出し、今子供が1人おります。
ここに辿り着くまで、様々な事を考えました。
ただ、いつも辿り着くのは本当にあればいいなと思う気持ちと、もし本当ではなかった事を考えた時の恐怖感です。
多分、言葉通りの意味を持たない「胎内記憶」を信じている人は、それらのエピソードが本当ではなかったとしたら?なんて微塵も考えた事がないでしょう。
なぜ私は恐怖感を伴ったか。それは、私の場合命を失っているという感覚が強い為か、その考えが我が子達への冒涜、死者への冒涜になりかねないと思ったからです。
私も「本当にそうだったらいいな」と思う事はあります。ですが「本当にある」とは思いません。上記の通り、本当でなかった場合は故人が語れない事をいい事に利用し、捏造したエピソードである可能性があり、もし捏造だった場合は死者への冒涜になりかねないからです。
死者は本来何も語れません。だからこそ、間違っている事があっても教えてくれる事はありません。
もしも本当は流産するのがわからず命が宿っていたら?
もしも本当は親を選べないんだとしたら?
本当の事を確かめる術がない以上、最早言葉通りの意味をなさない「胎内記憶」は思想となってしまい、その思想を我が子に押し付ける形になりかねない、と感じました。
例えば、我が子をあの時お空に帰った子の生まれ変わりだと持て囃す事は、目の前の我が子にとっても、居なくなってしまった我が子にとっても、失礼である可能性、そして事実ではない可能性がある事は、例え信仰していたとしても忘れてはいけない事であると強く思います。
私が最近よく目にするのはこちらです。
Instagramの広告に出てきた事があります。
子供はママを選んで産まれてくるそうです。
ママのおなかから出れないってわかってたけどママをおうえんするために来てくれる子がいたり、人生も紙に書いて決めてくるそうです。
私は母を喜ばせる為に生まれてきたのだろうか
上記のURLから一部の言葉を抜粋させて下さい。
胎内記憶のある子が
ホントよくいう言葉
10さいまでは、
ママをよろこばせるために
うまれてきて、
10歳からは
自分になるために生きてるんだよ
だから、ママと
はんたいのことを
するの。
私の中の母の記憶は、小さい頃も小学校の頃も、泣いていたり怒っている母が大半で、困らせてばかりでした。喜ばせる事は何一つできていません。
一生懸命考えた母の日のプレゼントも、誕生日プレゼントも、お土産も、「無駄なお金を使って…」「もったいない」「プレゼントなんていらない」
今にして思えば、母親は自分に自信が全くない人で、自分にそんな物をもらえる価値はないという自分自身への卑下ゆえだったのだろうと思います。
でも、子供ながらにこれらはマジでトラウマです。
私にはここに書かれている事ができなかったから、虐待されたという事でしょうか。役目を果たす事ができなかったから、自分になる為に生きる事を許されなかった。
結果的には、そういう事になりますね。
これらを総合して考えると、私は自分の人生を自分で決めて生まれてきたらしいので、親に虐待されるとわかっていてそれでも生まれてきたと…。
虐待サバイバーの皆様であれば、同じ事を思っていて下さっていると思います。
そんな訳ないと。
自分に当てはめた時の恐怖感
私は、正直怒りを感じます。きっとこれらを信仰して救われた方も沢山いるのだと思います。お母さん方にとって、これらは心地良い言葉のオンパレードでしょうから。
ただ、子供にとっては地獄でしかない、と私は感じました。
虐待されていた時にこの信仰を教え込まれていたとしたら?と考えるとゾッとします。
親にとって都合のいい甘い言葉は、時に子供を傷つけることもあるのです。子供の人生は生まれた時から子供のためだけの人生で、母親である私の為に産まれた訳ではなく、自分だけの人生を歩む為に生まれてきたのです。
我が子が私を選んできてくれたのではなく、私が我が子を産むと決めて、産まれてきた時に私が我が子を育てると決めたのです。そう考えるのが自然だと私は思います。
そして、子供にも人権はあります。親の人生の犠牲になる必要は全くありません。
今、これを読んで下さっているそこの貴方に私は問いたい。
言葉通りの意味を持たない「胎内記憶」は、自分に当てはめるとどうだったか。我が子にとって将来どういう影響を与えるのか。考えた事はありますか?
私も生まれ変わりなどは信じています。稀に前世の記憶をもって産まれてくる子もいると思っています。
ですが、私がドキュメンタリーなどを見ていて思う事はいつも一つでした。
もしも魂が一緒だったとしても、肉体が違えばそれは別人であり、別の人生である、と。
前世に囚われているままでは、一向に今の自分の人生は前に進まない。今の家族と、素直に一緒に未来を見つめる事ができない子も多く、海外のドキュメンタリーなどを見ていると、そう思わずにはいられません。
小さい頃の洗脳は比較的容易いという事
私も小さい子供を育てております。
最近、赤ちゃんの頃や生まれる前の話をする事があります。そう、所謂彼らのいう所の胎内記憶というやつです。
でもその前に色々とありました。
小さい頃どうだったのか、赤ちゃんは何処にいるのか、どうやってお世話するのか、どういう赤ちゃんだったのかなどなど。
しばらく質問責め期間がありました。
小さい頃を思い出して私の方から話をすると、確かめる様に確認したりしてました。
その期間を経て、最近は「小さい頃はこれが好きだった」「これが嫌いだった」「これ知ってる」「ここ行った事ある」などとめどなく語る様になりました。でも、日によって話は違ったりします。
勿論私の方から否定する事はありません。
「そうだったんだ」「よく覚えてるね」など言うと、嬉しそうに喜びます。でも、私も話を再確認しないし深くまで突っ込みすぎないからか、話があやふやで同じ話ができる事はほぼありません。園で得た知識もフル活用してきます。絵本の内容を取り入れてきたりもします。勿論うちの子に限りです。が、私にとってはそれが現実です。
親である私達が、この子にとっては世界のほぼ全てであるのですから。
親が子を洗脳する事も、知識を事前に刷り込む事も、小さい頃のうちはある程度容易い事を親も自覚する事は必要だと思います。
虐待サバイバーであり、母親だから感じる事
私は虐待サバイバーであり、1人の母親でもあります。
だからこそ、私はあえて「本人の口から直接事実を確認できない以上、本当でない可能性もある」事を、声を大にして伝えたいです。
勿論個人が信じる事は自由です。幸せであってほしい。穏やかに過ごしてほしい。こうであったらいいな。自由に信仰しても問題ないと思っています。
ただ絶対にある、と思い込みすぎて、周りにその価値観をさらっと他人に押し付ける事は、できれば辞めてほしい、と私は思っています。
私はモヤモヤした気持ちをその看護婦さんに伝える事はできませんでした。彼女は本当にそれを信じていて、悪気がない事も理解しています。
でも、悪気がないからしてもいい事はない事も確かです。
本当に生まれてきていない子供がそう言っているのですか?
もし、自分が死んでそれらが本当じゃなかったと分かった時、私は後悔したくありません。私が生きている間、私が間違った答えを本当の答えであると信じ続けて我が子をずっと苦しめていた、なんて事になれば、死んでいるのに死ねない、まさに生き地獄ならぬ地獄の始まりです。
生きている子にもそうです。子供は小さい頃、妄想と現実の境目が曖昧です。その曖昧を指摘しすぎるのはよくないと私も思います。ですが、それを指摘せず完全に信じ込んで持ち上げすぎる事もまた違うと思います。
子供は大人の顔色をいつだって伺っている存在である事を、親は忘れてはいけないと思います。
引き返せない時期まで来てしまった時に、傷になるかならないかは親の対応次第なのだと思うのです。
子供が親を選び、親が何をするか知っていて生まれてきたという話は、親の免罪符に使用できる言葉だという事を覚えておいてほしいです。
貴方はこうだから…と、理想を押しつけすぎてしまう可能性があるのです。子に余計なプレッシャーがかかる場合があります。
そして、例えば親が虐待をした時に「貴方が選んで生まれてきたんでしょう」と言えてしまう親は、悲しい事に一定数存在してしまうのです。
親にとって都合のいい言葉通りの意味をなさない「胎内記憶」には、一歩間違えれば自分の子供をまるで人形かの様に動かしてしまったり、接してしまいかねない危険性があると私個人は思います。
勿論、全てが悪いことではありません。
でも、特に子供に纏わるスピリチュアル系のお話は、危険性を十分理解した上で付き合っていって頂きたい。
我が子の為にも、注意して向き合って頂きたいなと思うのです。