転勤族の子供だった話
皆さんこんにちは!Mikiです。
4月になりましたね!
通勤電車や会社ビルで新入社員らしき方々を目にし、微笑ましくなっている4年目の社会人です。
私の働く部署でもベテランの方が退職されたり、新しい方が入ってきたりと少し変化がありましたが、私自身には特に変化はなく、人事異動でてんやわんやしている現場の皆さんを電話でサポートしている日々です。
「転勤先の支店にパソコン持ってきたんですけど、使えなくて…」
「前任者から引き継いだパソコンのロックが解除できなくて…」
「新しい拠点の資料フォルダにアクセスできなくて…」
そんな電話が朝から夕方までひっきりなしです。
きっと着任したばかりの新しい環境で周りに確認もしづらく、サポートセンターにお電話いただくのでしょう。
現場の皆さん、本当にお疲れ様です!!!
お気持ち、よくわかります。
…わかりますが、「事前に支店内で確認しておいてほしいなあ!」という内容も多いのが本音です!
私は基本的に転勤がない部署にいるため、私自身は転勤に振り回されることはないのですが、特に転居を伴う異動があると本当に大変ですよね。
実際「明日引っ越しで、携帯に連絡頂いても出られないかもしれないので、メールをお願いします」という方も居て、
「そうかそうか~」と思いながらメールを送ることもあります。
そんな電話対応をしていると、自分の子供時代のことを思い出しました。
今回は前回の記事「こんな感じで生きてきました。ざっくり経歴。」の補足的な感じで幼少期~小学校低学年の引っ越し体験について書いてみようと思います。(補足と言いつつだいぶ長くなってます)
0歳 初めての引っ越し
前に挙げた記事「こんな感じで生きてきました。ざっくり経歴。」でも少し触れたのですが、父の仕事の都合で、引っ越しを計4回しています。
まず、0歳の時に初めての引っ越しを経験します。
生まれた新潟県長岡市から東京へ。
というわけで長岡で暮らしていた時の記憶は無し!
0歳児を抱えて引っ越しした母、すごいです。
長岡には父の実家もあり、祖父母宅にまあまあ近いところに住んでた(らしい)ので手伝いに来てもらったようですがきっと大変だっただろうなと思います。
母に聞くと私は昼間よく寝る子だったらしいので、私が寝ている間にそろりそろりと荷物の整理をしていたようですね。
3歳 初めての転園
東京では、近所のお友達にも恵まれて、それはそれはのびのびと育ち近所の幼稚園に入園。幼稚園では先生の机の中にあったチョコを友達と盗んでこっそり食べていたという悪ガキっぷりも発揮していたとか。
そして、3歳になる目前。
入園したのもつかの間。7月に父の辞令と共に新潟県三条市へ引っ越しです。
3歳にして初めての転園。
三条市は包丁や工具など金物工業が盛んな街として有名ですが、私の記憶に残っているのは家の目の前に広がる田んぼ。
幼稚園もまた田んぼの真ん中にあるようなところでしたが、カトリック系の幼稚園で、教会が併設されていたこと、広い園庭があったことを覚えています。そんな自然豊かなところでのびのびと3年間過ごします。
とはいえ、引っ越し直後は体調を崩しがちで、肺炎になったり、原因不明の熱が続いたり、水疱瘡にかかったり。。。病院で点滴を打ちたくなくて看護師さんを蹴りまくり、診察室から脱走しようとした記憶があります。(まあまあ元気じゃん。。。)
身体は弱かったですが、メンタルは強く、新しい幼稚園でも人見知りもせずすぐに打ち解けて友達もでき、楽しく幼稚園に通っていました。元々そういう人間だったのか、自分なりに頑張っていたのかは覚えていませんが、この性格は良かったな、と後々感じることとなります。
幼稚園の記憶はいくつか断片的にあるのですが、中でもよく覚えているのが年長さんのお遊戯会。カトリック系の幼稚園あるあるだと思うのですが、クリスマスの時期になるとイエスの生誕劇を年長さんが行います。そこで主役のマリア様か、脇役の星役をやるか迷った結果、星役をやった記憶が強烈に残っています。
そんなこんなで無事3年間同じ幼稚園に通うことができましたが、小学校に入学するタイミングで
でました!父の辞令と引っ越しです!!
幼稚園の友達と同じ小学校に行けないのは残念でしたが、新しい環境に対して「嫌だ!」という感情を持った記憶はないですし、母に聞いても無かったらしいです。やっぱり免疫があったんですかね~。
6歳~7歳 小学校入学と父の海外赴任が決まる
新潟県の県庁所在地新潟市に引っ越し。
新潟市には母の実家があるのでおばあちゃんちにすぐに行けるのが嬉しかった!
近所の小学校に入学し、仲良しの友達もたくさんできました。今でも連絡してご飯に行く仲の友達もいます。周りの子は幼稚園や保育園から知ってる子同士だったけど、そのへんもうまくやってたんでしょうね私。偉いぞ6歳の私!
家の方向が同じ3、4人と道草をして帰って、お母さんたちに怒られるようなガキでした。(笑)
そんな日々が続くと思っていた矢先、
父が中国・上海へ2年間の期限付きで転勤になります。(えええ~~~!)
後から知りましたが、新潟市に辞令が出たのもその関係だったとか。
私が2年生になる前の年明けに父が上海に引っ越し。
家族2拠点生活が始まり、母との2人暮らしとなります。
両親の協議の結果、父の赴任から1年経った頃、すなわち私2年生から3年生になる年の1月に私と母も上海に行くことになりました。
父が生活に慣れ始めた2年生の春休みに初めて上海に遊びに行った時はいろいろ衝撃でした。
まず飛行機が霧で大幅に遅延。
初めて乗った中国東方航空の機内食でよくわからないものが出て来て、母と毒見体験。
なんとか上海に着くも、待てど暮らせど預け荷物が出てこず、
家に着いたのは夜中。
家に着いてとりあえず食べた冷凍肉まんのおいしさ。
父の住む超絶快適な日系タワーマンション。
初めて食べた本場の中華。
上海には1週間くらいいましたが、知らない街、知らない言葉、知らない食べ物の数々。
今みたいにSNSやネットも無い時代(2004年)で踏み入れた上海は、本当に知らない世界で楽しかった。
スーパーに売っている豚の丸焼きや、道を歩くおじさんが手にしている袋から出ている鶏の生脚を見た時は「日本に帰りたい」と思いましたが上海が好きになりました。
その年の夏休みもまた遊びに行き、そして、来たる2005年の1月。
上海に引っ越します。
1年後には日本に戻る予定だったので、日本の家はそのままでしたが、上海に送る荷物の規定とかいろいろ大変だったことを覚えています。
あとは子供だったので渡航前予防接種の回数が多かったのがしんどかったですね。
1年後に元の小学校に戻るので、お別れ会は無かったけど、「中国」というよくわからない土地に引っ越す友達が珍しかったのか、皆「住所教えて!手紙出すよ!」と言ってくれました。
そして上海日本人学校小学部に編入。
これが初めての「転校」です。
上海の小学生になる。
当時の上海日本人学校はバンコク日本人学校を抜いて、世界一生徒数の多い日本人学校として有名でした。今は浦東校と虹橋校の2つに分かれていますが、私がいた時はまだ虹橋校のみで2000人くらいの生徒数でした。超マンモス校!!
新潟の小学校は、1学年2クラス、計60人程で全校360人だったので、まず学校規模の大きさにびっくり。
編入に際して、日本語でコミュニケーションが取れる必要があるため、作文と面接の試験のようなものがあったのを覚えています。
(編入手続きは済んでいるので落ちることはまず無いのですが。。。)
この学校に在籍できた事、そしてこの時期の中国に居れたこと、上海での1年は、私の人生に大きく影響しているといっても過言では無いです。貴重な経験をさせてくれた両親には感謝。
登下校にはマンションから出ているシャトルバスを使いましたが、
学校までバスで1時間かかったので、まず朝が早い。(7時過ぎにはマンションを出発)
そして渋滞に巻き込まれる。(上海の朝の渋滞はえぐいです。)
渋滞にハマって1限に間に合わないこともしばしば。
そんな時は校内放送で「○○(マンション名)のバスが遅れています。」と鳴り響きます(笑)
遅刻しても怒られないのはラッキーだけど、絶対に寝坊や忘れ物をしてはいけません(笑)
(親がタクシーで送り届ける羽目になります。)
運転手は中国人の運ちゃんなのでまあまあ運転が粗い。一回前の車に軽くぶつかったらしく、相手のおじちゃんが車から出てきて喧嘩が勃発したこともありました。(この時はめちゃくちゃ遅刻しました)
最初の頃はバスで登校できるのが嬉しくて日本の友達に自慢してましたね!
初めて登校した日はさすがの私も緊張していたことを覚えています。※ちなみに上海に着いてわずか4日。(まだ自分の家にも慣れていないのに!)
バスに乗って学校に着いて、玄関に居る担任の先生と一緒に教室へ。
(学校も広い&教室が足りなくてよくわからないところに追加されていくため、編入生は一人では到底教室にたどり着けない。)
先生の紹介を受けて自分の席についてから、
編入生は質問攻めに遭います。
「日本のどこから来たの?」
「上海どう?」
「どこに住んでるの?」
「いつ上海に着いたの?」
「なんて呼べばいい?」
自然と周りに人が来て、その日のうちに友達が出来ました。
その環境がとてもとてもありがたかったです。
後からわかったことですが、生徒の多くが編入生なので、みんな新しく来た子の気持ちがよくわかるんです。あとは、放課後に気軽に遊びに行けない※ので学校にいる時間で仲良くなろうとするんです。
その為、クラスに打ち解けるのに時間はかかりませんでした。
※同じマンション内では遊びに行けますが、別のマンションに子供だけで行くことはほぼ不可能。私の住んでいるマンションはそんなに入居者が多くなく、クラスには私ともう一人しかいませんでした。そして中心地から離れているところにありました。
日本に帰る子、日本から来る子が毎月のように居て、誰かを見送り、誰かが入ってくるのが当たり前の環境。なかなか経験出来ないことでした。
日本人学校にいる間に自分の人生観が変わったこと、私の人生に大きく影響しているという点はまた別の記事で書こうと思います。
上海に来て2ヵ月でインフルエンザにかかったり、謎の胃腸炎で死にかけたり、ほぼ毎月熱を出したりしていてやっぱり転校や慣れない生活のストレスは身体に出ていましたが、上海生活は本当に楽しかった!
クラスメイトには、生まれた時から上海で日本で暮らしたことの無い子、お母さんが中国人でお弁当が独特な子、シンガポールで生まれて、上海に来て、香港へ引っ越した子など、いろんな子がいました。
日本で暮らしていた場所もバラバラ。
みんなの出身地の話を聞くだけで小学校3年生の社会科の授業は成り立ったんじゃないかと思います。
新潟出身の子はほとんどいなかったので、皆に珍しがられたこと、
担任の先生が石川県出身だったので、妙に親近感があったこと(県出身者が少ないと同じ地方で固まり出します)
関西人にツッコミで人生初頭を叩かれ、衝撃的だったこともよく覚えています。
1年後の2006年1月、私は帰国が決まっていましたが、帰国予定のない子がほとんど。みんな上海は好きだけど、やっぱりどこか日本が恋しい感じがしていました。
本帰国する子にはクラスみんなからのメッセージカードを渡すのが恒例で
私も実家に大切に取ってあります。(1年しかいなかった割に結構友達の顔とか覚えている(笑))
上海にいる間に家族で北京、杭州、シンガポールに旅行に行ったりもして、家族の思い出もたくさん!
そんな感じで小学校3年生の1年は上海日本人学校で過ごし、4年生になる直前の1月に日本に帰国しました。(帰国直前にインフルエンザにかかり、帰国を遅らせましたが。。。)
大人になって感じる事
約束通り(?)私は1年で新潟に戻ってきました。一家で引っ越しをしたのはこれが最後です。
が、父は再び上海へ異動になり今も一人上海で暮らしています。(そろそろ帰ってきて欲しいなあ~)
このように、引っ越しと転校を経験してきた中でいろいろと得た事があると今になって感じます。
例えば、仕事を始めて言われたこんなひとこと。
「Mikiさんって、すごい絶妙なラインで止まってくれるよね。」
会社の先輩に言われたことなのですが、話しかけるタイミングが私は絶妙らしいです。その先輩が話しかけて欲しくないとき、「なんとなく今じゃないかな・・・」と感じるので私は話しかけません。それはその先輩だけでなく誰に対しても、です。
これは「空気を読む」ということに近いのかもしれませんが、どういう風に自分がふるまえば良いのか、何となく身を持って学んでいたんだろうなと今になって思います。
あとは人見知りじゃないこと。
人見知りだった記憶が自分にはなく、人見知ってる場合じゃなかったというのが正しいかもしれませんが、初対面の人と話すことが苦じゃないのは良かったなと思っています。
友達も日本のいろんなところに居るし、大学に入ってから私と時期は違うけど上海に居たことがある子にも出逢ったし、大学のバイト先の友達が日本人学校のクラスメイトだったり、ゼミの後輩が隣の隣のクラスに居たことが判明したりして、「世界って狭い!」と感じられるようになりました。
幼少期の体験って人格形成にすごく影響すると思うのですが、その時期に数年に一度刺激を与えられたのは良かったなと感じ、今となっては両親に感謝しています。(そのおかげというのが正しいかはわかりませんが、飽き性に育ちました!)
これを読んでくださっている方の中には転勤族でお子さんがいらっしゃる方もいると思います。
日々電話対応している電話相手の方にもお子さんが居るのかな、と思ったら自分の幼少期の話を思い出したお話でした。
最後まで読んで頂きありがとうございました!